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脱毛、するも自由。しないも自由。

フェミニズムの記事でも、美容・恋愛に関する記事でも、女性には「脱毛」について書かれた記事が常に存在し、するか否か、という選択肢を求められる。

「女性だけ脱毛をするなんておかしい」というフェミニズム的な意見。
「毛がないのが綺麗」「すべすべ肌で彼も喜ぶ」という美容・恋愛的意見。
どっちが正しいかなんていうのは、誰にも決められない。


わたし自身は、姉がいたこともあり割と早いうちに脱毛に目覚め、自己脱毛を繰り返し、数年前に医療脱毛をした。医療脱毛をしたことをある人はご存知の通り、元々毛が薄い人ならともかく、5回程度の照射では完全に消えはしない。なので、いまだに毛は存在する。元の毛よりも細くなったり、量が減ったり、生えるのがゆっくりになったりはしているので、念のために言っておくがあの高い金額分の効果がないわけではない。

過激派ではないと思うが、わたしはかなりフェミニズムを大切にしている。
なので、「じゃあ何で脱毛したの?」という疑問はすごくわかる。わかるのだけど、同時に「脱毛しないことだけがフェミニズムではない」ということもわかってほしい。手脚などの脱毛をしない人も、眉間や唇の上など、顔面は何らかの脱毛をしていると思う。眉毛を整えることもある種の脱毛だ。


自己脱毛を繰り返していたわたしは、特に日にあまり当たらず皮膚の弱い、脚の毛を剃ると翌日脚がかゆくなったり赤くなったり…となるのがしょっちゅうで、なるべく脚を出さないスタイルをし、処理も最小限に抑えていた。
以前働いていた職場では、不意に撮影モデル(服やアクセサリー類)を頼まれることが時々あった。そういう時、脚が出るとなると「脱毛してないんで無理です」とは言えず、適当な理由を告げ、なんとかその日の撮影を断っていた。
肌が白く、毛質がしっかりしている上に昔からの脱毛で濃くなった毛は、そのコントラストからあまりにも目立つので見せたいものではなかったし、ある種の強迫観念があった。毛のない肌じゃなければ出してはいけない。というような。

一方で、二の腕などあまり出さないような場所は、そもそも自己脱毛もほぼせず、毛自体も比較的薄かった。これくらいならいいだろう、という自分の中で納得もしており、脱毛せずそのままあらわにしていることもあった。
今思えば、不思議なダブルスタンダードだ。


医療脱毛をしたのは、皮膚のためもあるが、NZに渡航するのが決まっていたからもある。あちらでは水やエネルギーは高いので、シャワーは15分まで、などと細かく決められている。そんな短い中で毛の処理までするのは…という心配もあり、高額な医療脱毛に踏み切った。施術をしてもらった看護師さんに、一般的なカミソリでは、深剃りが出来るけどその分皮膚も削っているので肌によくないと言われた。わたしは弱い脚の皮膚を、無情にも削り取っていたわけだ。医療脱毛をしてから、カミソリを使わなくなり、削られなくなったおかげで、肌はやわらかくふかふかになった。毛を剃る時間もほぼなくなった。

NZに行ってからは、多くの人が腕の毛なんかは生やしっぱなしなので、だんだん自分もどうでもよくなってきた。外でたくさん遊ぶようになって、肌も少し焼け、医療脱毛をした後の細くなった毛では目立たなくなった。


わたしにとって、脱毛は世間からの強迫観念だったのかと思っていたが、もしかしたら、それだけではなく、自分の中にある一種の「美的感覚」だったのかもしれない、と最近思うようにもなってきた。眉毛を整えるのと近いかも、と。
というのも、手脚の毛は、昔「ま、これぐらいならいっか」と思っていた二の腕と同じくらいの均一な薄さになった。つまり、まだわたしの肌は「つるつる」ではない。だけど、それでもこれくらいでもういいや、と思えている。

そう思えたのは、元恋人のおかげもある。彼はちょっと変わっていて、セクシーだから剃らないでよ、なんていうほどだったけど、本当に自分を愛してくれている人であれば、毛があろうがなかろうが、そこに愛はあるのだ。
(ただ、毛があると萎えてしまって出来ない、とかいう問題を恋人間でお持ちの場合は、一度話し合ってみるといいのではと思う)


だから、こう言いたい。
脱毛、するも自由。しないも自由。


肌の露出がもうすぐ始まるが、毛のないつるつるの肌も、毛のあるナチュラルな肌も、どっちも素敵だよ。そう全女性に伝えたい。


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