216.小学校の担任先生

本稿は、2021年7月10日に掲載した記事の再録です。

「五年二組、着替えてプール」
朝、学校に着いてすぐに校内放送から担任の先生の声が聞こえてくると、私たちは歓声を上げて早速着替えます。今日は1時間目からプールの授業です。プールの時間は25mのプールを順番にどんどん泳いだり、自由にみんなで潜ったり、バシャバシャと水を掛け合ったり、先生の手振りの鐘がカランカランと音を立てるまで夢中になって泳ぎ遊びました。

大抵の場合、まだ気温の低い1、2時間目からプールの授業をするクラスは他にはないので、私たちは2時間続けてプールにはいっていることが多く、お天気のいい日はもちろん、曇っていても、小雨が降っていても、他のクラスの何倍もの時間プールに入っていました。

夏の暑い日などは、「ねぇ、先生、ねぇ、いいでしょ?」とみんなで先生にねだって午前中の間ずっと、つまり1時間目から4時間目までプールの時間にしてもらったこともありました。一番すごかった日は、学校に着くなり「五年二組、着替えてプール」の放送でプールに飛び込み、お昼休みは水着の上からバスタオルをマントにして屋上で給食を食べて、午後またプールで泳いだ日もありました。忘れられない一日でした。

夏は、起きている時間の三分の一はプールの中にいたのではないかと思うほど、6月になった途端にプールに入り、10月の秋風が吹いてくるまで授業中泳ぎ続け、放課後もスポーツ少年団という名のクラブ活動で泳ぎ、夏休みもプールに通い、学校のプールが使えない日は、子どもの足で30分くらいの所にある企業の社員保養施設の近隣住民へ公開されているプールで泳ぎました。

スクール水着のあとがハッキリ残ってしまって、翌年のプールシーズンになっても、私たちはみんなまだ白い水着を着ているようでした。最初は泳ぎが覚束ない子どもたちも、クラス全員が100メートルくらいなんなく泳げるようになっていました。私も1,000メートル位へっちゃらで泳げるようになりました。

◇ ◇ ◇

昭和45年(1970年)4月から昭和47年(1972年)3月まで、私たち五、六年生の担任だった先生は、私たちよりもひと回り上で、大学を出て二年目の男性の先生でした。先生というより、少し年上のお兄さんという印象でした。

あだ名は「ゴリラ」で、クラスの子どもたちみんなから親しみを込めてゴリラ、ゴリラと呼ばれていました。背が高く、スポーツ万能の先生でした。

先生は小学校の校門の斜め前にある理容室の二階の四畳半に間借りしていて、いつもくたびれたジャージを着て、とても貧乏そうでした。なぜならお給料が出ると、私たちクラスの子どもたち全員にお菓子を買って配ってしまうからでした。

先生はいつもボロボロの格好をしていたので、九州のお父さんが危篤だとの連絡を受け急いで羽田空港に行った時、よど号ハイジャック事件の直後だったこともあり、厳戒態勢だった空港警察に赤軍派の一味ではないかと疑われ、取り調べられて大変だったと聞いて、クラスの児童全員が大笑いしながら、さもありなんと納得したくらいでした。

◇ ◇ ◇

私は四年生までは駅にほど近い小学校に通っていましたが、五年生になる春休みに同じ市内の、でもあの頃はまだ畑がたくさん残っていた新興住宅地に引越ししました。

私は小さな頃からよく熱を出して寝込んでいて、小学三年生の時も、四年生の時も肺炎になって、二年続けて運動会には出られませんでした。夏祭りの時も、笛や太鼓の音色を夏掛けの布団の中で悲しく聞いている子どもでした。

隣に住んでいたお医者さんから「お母さん、残念だけど今度はあきらめてください」と言われたこともあるそうで、母は学期末の成績表を見ても、学科の成績よりも隣のページにある出席日数を眺めては、溜め息をついたり喜んだりしていました。

ところが、その私が五年生、六年生は一日も休まず学校に通い、そればかりか、中学、高校とその後も皆勤賞となるほど丈夫な体になりました。毎日プールで泳ぎ、野原や雑木林を駆けめぐっていたからだと思います。

◇ ◇ ◇

プールシーズンが終わると、今度は写生の季節がやってきます。

「今日は写生に行こう」先生のひと言でみんな飛び上がって喜ぶと、各自画板と鉛筆、それに絵の具セットを持って表へ出ます。画板とは、絵を描く時画用紙を挟んで使う大きな板で、斜めに付いている紐を肩にかけるようになっていました。

「ねぇ、先生、今日はどこ行くの?」 と子どもたちは行き先が気になります。先生は校門を出ると、45人の児童を連れて神社や忠霊塔、時には隣の市の団地に行ったり、その日の天候や状況に合わせてあちこちに連れて行ってくれました。

例えば神社につくと「はい、では今日はここで描こう」と解散の合図を出しました。すると、子どもたちは銘々好き勝手に木に登ったり、石に腰かけたり、地べたに座り込んだりして、自由に絵を描き始めます。先生も描きました。絵のうまい子もいれば、私のようにいつも構図がヘンテコリンな子どももいました。それでも自由に描いて、自由に色を塗りました。先生はどこへ行っても必ず水道の蛇口のある所を知っていて、絵の具用の水を汲むことができました。

忠霊塔のある広場に行くには、途中雑木林を通って行きました。そういう所では、先生が「これはアケビっていうんだよ」と野生の果実を手でもぐと、そのままガブリと齧ってしばらく味わうと、そして種を辺りにプププと飛ばしました。私たちも先生の真似をして次々にアケビをもいで、齧りつきました。アケビは子どもの掌にちょうど収まるくらいの大きさで、熟れると縦に割れて白くてとろりと甘い果実と黒い種が見えるのです。もちろん種のプププも真似しました。

2時間か3時間、野原や雑木林を歩き、絵を描き、野生の植物の名前もたくさん教えてもらって給食までに学校へ戻ってきました。「先生、まだ絵が仕上がらないよ〜」という子どもたちの声に応えて、お昼休みも屋上で給食を食べながら絵の続きという日もありました。爽やかな秋空の下で忘れられない思い出です。

◇ ◇ ◇

冬になって雪が降ると、朝から小学校の校庭は雪合戦の戦場と化し、授業中も全員気もそぞろで、給食もそこそこにみんな校庭に飛び出して行って雪まみれになりました。

私が育った東京の西の郊外では雪は年に数度しか降らないので、少しでも雪が降ると、それは大騒ぎになったものでした。みんなが教室に引き上げた後には必ずと言っていいほど、片方だけのミトンの手袋や毛糸の帽子が落ちていました。

東京の降雪記録は、気象庁のデータを見ると、五年生だった1971年(昭和46年)1月には3日間雪が降り最深積雪は9cm、六年生だった1972年(昭和47年)2月には7日間雪が降り、最深積雪は7cmだったとあります。郊外だった私たちの地域も10cm程度の「大雪」が降って夢中になりました。

◇ ◇ ◇

プールや写生や雪合戦の合間を縫って、校庭でたくさんの遊びもしました。「だるまさんが転んだ」を始め、「ガンバコ」や「馬跳び」や「世界一周」など、ひたすら遊んでいた記憶があります。

子どもの遊びは地方によって様々な呼び方があるのでしょうが、「ガンバコ」というのは、地面に「田」の字を描き、四人が田の字の各四角を陣地として、そこに一度バウンドしたドッジボールを他の子の陣地に入れるという遊びです。転校する前の学校では「天下落とし」と呼んでいました。10分でも休み時間があると、すぐに「ガンバコ」が始まりました。

馬跳び」には二種類あって、1メートルか1.5メートルおきに、足首を掴んで屈んだ状態の仲間を、跳び箱の要領で次々に跳び越えていく馬跳びと、「長馬跳び」と呼ばれた遊びがあって、こちらは男女問わず股ぐらの間に頭を突っ込んでしっかりとした「馬」を作るチームと、その上にチーム全員が乗れるように先頭の子どもはできるだけ前の方に跳び、チーム全員が「馬」に乗れたら、先頭の子ども同士がじゃんけんで勝負するという遊びがありました。

今回調べてみたら、「長馬跳び」は危険な遊びなので禁止されたという記事をたくさん見かけました。今思えば、男女問わず股ぐらに頭を突っ込んでとか、勢いよく跳び乗ったら馬が崩れて全員ぐしゃぐしゃになってなんてことは、今日の基準では危険で良くない遊びということになるのかもしれません。

私たちは少し長い休み時間になると、長馬跳びをしに校庭に駆け出して行って、じゃんけんのグーパでチーム分けをして、長馬跳び用の十人位のチームを四つ作ってリーグ戦をやっていました。

「世界一周」というのは、前の小学校では「アメーバ」と呼んでいましたが、校庭の土の上を靴の裏でずりずりしながら線を引き、曲がりくねった大きな二重丸を描きます。この二重丸はグネグネしていて、ところどころ二本の線の隙間が広くなったり狭くなったりしています。二手に分かれた片方のチームは、二本線の間をはみ出さないように一周回って来ます。もう一チームは、そうはさせまいと相手の手を掴んで線の間から引きずりだしたり、押しだしたりします。

誰かがオトリとして敵を引きつけている間に、残ったメンバーがいくつかのグループで同時に走り出すなど、チームワークが大いにものをいうゲームでした。背の高い子や低い子、すばしっこい子やドンくさい子、色んな子がいてみんなのチームなので、コソコソと作戦を耳打ちしながら、全員でとにかく一周回ってくるということに必死でした。

先生はといえば、いつも遊びの輪の中心にいて、必ずどこかのチームに入って真剣勝負していました。前の学校では、先生は審判のような役割だと思っていましたが、一番はしゃいでいたのは担任の先生だったかもしれません。先生は審判というより選手の一員でした。

◇ ◇ ◇

テストの時間、前の学校では白い紙に印刷された市販のテスト用紙が配られ、それに解答を書き入れ、先生が回収し、採点の上返却されました。五年生なって転校した学校でも、私たちの五年二組(翌年は六年二組)を除く他のクラスでは、同じく白い市販のテスト用紙が配られていました。

ところが、私たちのクラスでは、テストの時はいつもただの藁半紙が一枚配られるだけだったのでした。藁半紙の右上に名前を書き、先生が「1番」というと、藁半紙に「1」と書いて、問題が出されるのを待ちます。例えばこのような問題です。「社会の問題です。お城を中心としてできた町をなんというでしょうか」

みんなが大声で「先生、ヒント、ヒント!」というと、先生はおもむろにマイクを持ったように左手でグーを作り唱い出すのです。「♪ 格子戸を、くぐり抜け、見上げる夕焼けの空を、誰が唄うのか子守唄、私の(ここで絶句)」 当時大流行した小柳ルミ子の「私の城下町」という歌でした。みんな「わかった〜」と歓声を挙げて、一斉に鉛筆を走らせました。

このように、問題とヒントを繰り返し、答え合わせは隣同士の子が交換して行いました。みんなそれまでのテストの概念がガラリと変わって驚きましたが、楽しくみんなで学ぶことができました。

◇ ◇ ◇

ある時、理科の授業中、教科書に太陽の表面温度は6,000度だと書いてあったのですが、私にはそれが不思議に思えてなりませんでした。というのは、昭和44年、前の年に初めてアポロ11号で人類が月に行ったばかりだというのに、どうして誰も行ったことのない太陽の表面温度がわかるのだろうと思ったのです。

思い切って質問してみたら先生はとても良い質問だと褒めてくれました。「教科書に載っているからといって頭から信じてはいけない」と言い、先生は「みんなはどうして教科書にこういう風に書かれていると思う? 太陽の表面温度の求め方について、明日先生も調べてくるから、みんなもどうして誰も行ったことのない太陽の表面温度が求められるのか家で調べてきてごらん。ヒントはスペクトルです」と言ってくれたのです。半世紀経っても忘れられない嬉しい先生の対応でした。

◇ ◇ ◇

先生は、大学の寮の話をよくしてくれました。中でも私たちに人気があったのは「雨が降るぞ〜」の話でした。当時の大学の寮生活では、トイレに行くのが面倒な二階の学生は用足しの際は、窓辺に立ち「雨が降るぞ〜」と警告すると、一階の学生は慌てて軒下に吊るしてあった洗濯物を取込むという話でした。何度も何度も「先生、『雨が降るぞ〜』の話して!」とお願いしたものでした。今なら問題になりかねません。

◇ ◇ ◇

私は東京の西の郊外で育ちましたが、塾に通ったことは一度もなく、同じクラスから私立の中学校を受験した子どももいませんでした。私より三歳年上の夫は東京の都心部で生まれ育ちましたが、夫は小学生の頃から塾に通い、日曜日には全国一斉テストを受けていたといいます。塾にはたくさん本があってドリトル先生や巌窟王、三国志を読むのが楽しみで早くから塾に行っていたそうです。

「時代」と言ってしまえば時代なのでしょうが、時代や地域だけでは片付けられない多くの要因によって、担任の先生は私たちの前に存在していてくれました。

私は子どもながらに、先生は校長先生に叱られたりしないのかなと少し心配していました。プールや写生や藁半紙のテストは当時としても「標準的」でないことはわかっていました。丸一日中プールに入っているなど文部省の作った学習指導要領から逸脱しているのは子どもの目から見ても明らかでした。

それでも先生が誰よりも子どもたちを愛し、子どもたちのことを考えてくれていることは全員が理解していましたから、なんだかよくわからないけれど、謎の社会のおきてから先生を守らなきゃという思いがありました。

先生が私たちのことを何より大切に思ってくれていたことは、言葉というより、その日々の行動に現れていました。先生は、毎日毎日、お父さんが危篤というような特別な日を除いて「学級だより」を配ってくれました。

「学級だより」とは、先生が鉄筆片手に手書きでガリ版を切って、小さなイラストを入れ、謄写版で45枚手刷りしてクラスの子どもたち全員に配ってくれたお便りでした。遠足や運動会などの連絡事項はもちろんのこと、日々の雑感、詩など、ちょっとクセのある字で書いてくれました。当時23、4歳の青年が全人格で児童に向かい合い、慈しみ、育もうとしてくれていることが伝わってくる学級だよりでした。

私はこの note の初めの頃、毎週のようにプリントをガリ板で切るという、並大抵の労力ではできない教育をなさった恩師を描いた渡辺一夫の随筆に触れたことがありましたが(005. アンベルクロード神父)、私の小学校時の担任の先生は、毎週どころか、ほとんど毎日にように学級だよりを配ってくださったのです。

担任の先生から教えを受けた数々のことがらの中で、とりわけ忘れられない1964年東京オリンピック3位入賞者の円谷幸吉選手のことは以前にも書きました(049. 東京五輪1964年)。

丈夫な体を作り、チームワークを大切にし、何事も盲信することなくこの手で調べ、よく学び、よく遊び、献身的に労を惜しまず、「自分のために頑張って生きなさい」という数々の教えを受けた私の子ども時代は、奇跡の二十四箇月とでも呼びたいような素晴らしい二年間でした。


<再録にあたって>
小学生の担任の先生を改めて思い起こしてみると、そこには圧倒的な信頼関係がありました。今思うと、彼は23、4歳の大学を卒業したばかりの若い一青年でしたが、彼は45人の子どもたちに無償の愛を与えてくれました。人格というものは、年齢に関係ないものだと感じます。先生を思い出す時感じるあの感情は何だろうと思い考えて見たら、愛と信頼という言葉が浮かんできました。


000. 還暦子の目次へ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?