097.追悼・立花隆

巨星墜つ。6月23日「『知の巨人』死去」と立花隆氏の訃報が報じられました。2021年4月30日急性冠症候群で死去。80歳でした。

「立花隆」は、私にとっては若き日の憧れの人物で、この世を生きていくための水先案内人のような人でした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます

『宇宙からの帰還』

立花隆の著書で、私が初めて読んだのは『宇宙からの帰還』でした。1982年に新卒で就職した会社で、私は社長室秘書課に配属され、日々来客にお茶をお出しするという職務を担っていました。

1983年新春、その日の来客は、まだ経営難になる前の(中央公論新社ではなく)「中央公論社」の社長でした。刷り上がったばかりの新刊書を数冊、手土産にお持ちなり、社長としばし歓談されてお帰りになりました。

通常はこのような寄贈本をいただくと秘書課の本棚に並べておくのですが、青い地球を背景に白い宇宙服を着た宇宙飛行士が作業をしている表紙を見て、書店では手に取らなかったかもしれないこの本を、読んでみたいと思いました。書棚に飾っておいても誰も読まないのはわかっていたので上司に断ってこの本を持って帰りました。

私は今でも、あの日、帰りの電車内で活字が輝き始めたことを覚えています。

 実をいうと、一人の詩人も宇宙飛行士に採用されなかったが、詩人になった宇宙飛行士はいる。画家は宇宙飛行士にならなかったが、画家になった宇宙飛行士はいる。宗教家・思想家になった宇宙飛行士もいれば、政治家になった宇宙飛行士もいる。平和部隊に入った宇宙飛行士もいれば、環境問題に取り組みはじめた宇宙飛行士もいる。
  シュワイカートのことばを借りれば、 「宇宙体験をすると、前と同じ人間ではありえない」 のである。(中略)
 宇宙体験の内的インパクトは、何人かの宇宙飛行士の人生を根底から変えてしまうほど大きなものがあった。宇宙体験のどこが、なぜ、それほど大きなインパクトを与えたのか。宇宙体験は人間の意識をどう変えるのか。
 そこのところを宇宙飛行士たちから直接聞いてみようと、一九八一年の八月から九月にかけてアメリカ各地をまわり、さまざまの生活を送っている元宇宙飛行士たち十二人に取材してきた結果をまとめたのがこのレポートである。

立花隆著『宇宙からの帰還』中央公論社(1983)

人類史上地球環境の外にはじめて出るという体験をした宇宙飛行士らが、どれほど意識構造に深い内的衝撃を受けたのかについて書かれた本書は、あまりのおもしろさに文字通り活字から目が離せなくて、自宅のある駅についても、まるで漫画に出てくるガリ勉くんのように、本を両手で持って、読みながら自宅まで歩いて帰ったことをよく覚えています。

帰宅してからも、お風呂に入る時間も惜しんで読み続けました。地球、生命、宇宙。神との邂逅を経験し伝道者になったり、ESP研究所を設立したり、ドラスティックな宗教的な目覚めをした宇宙飛行士はもちろん、ものの見方が変わって政治家になったり、ビジネス界へ転身しても「至高の存在」について語る人々の話をむさぼるように読み続けました。

一体、この本の著者はどんな人物なのだろうかと思いました。

『田中角栄研究』

1974年10月9日発売『文藝春秋』11月特別号に、立花隆の「田中角栄研究〜その金脈と人脈」が掲載され、同年11月26日に田中角栄首相が辞任を表明し世間が大騒ぎになっていた頃、私は中学3年生でした。退陣の前日から始まったNHKドラマ「黄色い涙」に憧れを抱いていたフランスかぶれの女子中学生でした(089.ドラマ「黄色い涙」)。

1976年2月、アメリカ議会上院で行われた公聴会において発覚したロッキード事件によって日本中が大騒ぎになり、同年7月27日に元総理大臣田中角栄が受託収賄と外国為替及び外国貿易管理法違反の疑いで逮捕された時、私は高校一年生でした。中原中也や萩原朔太郎の詩を手にフランスに憧れ(025.モンサンミッシェル)、ミュージックライフを片手にクイーンのフレディ・マーキュリーを追っかけていた女子高校生でした(051.軍歌とユーミン)。

1979年、戦闘機の輸入を巡る汚職事件、ダグラス・グラマン事件に関し、国会に証人喚問された証人のひとり、日商岩井の副社長の海部八郎氏が、手が震えてしまって宣誓書に署名できない様子をテレビで見ていたのは大学生の頃でした。私は雑誌「JJ」片手になんちゃってニュートラファッションで、いくつものアルバイトをかけもちしながら、日々良く働き、良く学び、良く遊んでいた女子学生でした(063.JJと『なんクリ』)。

政財界を揺るがす大スキャンダルになったロッキード事件は、私が高校生の頃から連日報道されていて、「記憶にございません」やピーナッツやピーシーズ、それにP3Cなどという流行語は毎日のように見聞きしていましたが、あまりに事件が大き過ぎて、私には全体像がわかりませんでした。

『宇宙からの帰還』を読み終わって、あまりの素晴らしさに放心状態だった私は、著者の紹介欄を読み、立花隆という人物が東大仏文科を出た人物であると知り、フランス文学科なのかと勝手に親近感を抱き、それでは他の著書も読んでみようと思い、手始めに既に文庫本になっていた『田中角栄研究全記録(上・下)』を読むことにしました。

「まえがき」を読むといきなり「かつて、一人の女の子に、千枚のラブ・レターを書いたことがあった」とありました。その時私の脳裏をよぎったのは、中学生の頃から愛読していた芥川賞を受賞した庄司薫の『赤ずきんちゃん気をつけて』の続編『白鳥の歌なんか聞こえない』の主人公薫くんと、友人の小林との間で交わされた会話でした。

 ぼくは、彼が部屋に入ってつっ立ったままなにかしゃべり出そうとしたのを、さえぎるようにしてこっちから話し出した(何故って、うっかり放っておいて、小林がつい「小説風」にいい調子にしゃべって、ひっこみがつかないようなことになっては大ごとだからだ)。
 「おまえ、便箋に五百枚もラブレター書いたってほんとうか?」
 「えっ?」と口をあけて、彼は蒼くなった。「誰にきいたんだ。」
 「天網恢々っていうやつだよ。中学の時の友達がね、日比谷のバカなドーテーについてしゃべったんだ。もちろんおまえだと気づいたのはおれだけだよ。」 「……。」 「まあどうでもいいけどさ。」と、ぼくはあまり図星だったので、こっちまで少しあわてて言った。 「ふうん。」小林はいつものように威勢よくベッドにひっくり返らずに、ショボンとベッドに腰をおろした。 「五百枚じゃなく百枚だけどな。」と、彼はボソボソ言った。そしてそれから、ちょっと下を向いて考えこんでからぼくにきいてきた。「それで、おまえはどう思った?」
 「ごくふつうの話としては、すごく感動的ないい話だと思ったよ。」と、ぼくはゆっくりと言葉を選びながら言った。「ただ、その張本人がおまえとなるとね。」
 「ははあ。」と言って小林はしばらく考えこみ、そしてそれから静かに思い出すようにしゃべり出した。「五年ほど前だそうだけどね、おれよりうわ手で、大判の便箋に千枚も恋文を書いたやつがいたんだそうだよ。そしてそいつは、それをケーキの箱みたいに包装して、真夏のダリアまたは消防自動車のような真赤な真赤なリボンをかけて送ったんだそうだ。そしたらその相手の娘はね、もちろんすごい美人だったそうだけれど、びっくりして大あわてで彼と結婚したそうだ。」
 「へえ。」 「ところでその男はね、友達にこう話したんだそうだ。つまり彼の計算によると、その彼の恋文を原稿用紙に換算すると何百枚とか何千枚とかになって、ちょうど『ファウスト』と同じだっていうんだな。どう思う?」

庄司薫著 『白鳥の歌なんか聞こえない』中公文庫(1973)

庄司薫は1937年4月生まれ、立花隆は1940年5月生まれで、庄司薫は1957年に東大文科二類へ、立花隆は1959年に同じく東大文科二類に入学しているので、もしかしたら小説に出てくる青年のモデルは立花隆ではないかと思ったのです。千枚ものラブレターを書く青年がそう何人もいるとは思えませんでした。

ことの真偽は今も不明のままですが、「まえがき」によれば、立花隆の恋愛は成就せず、「相手の気持ちをこれっぱかりも変えることはできなかった」ため「私は自分のものを書く能力に対して、完全に自信を喪失し」てしまい「すでにもの書き家業をはじめていた私は、ラブ・レターを書き続けるのをやめるとともに、もの書き家業もやめることにした。私の経歴の中に『1971年から72年にかけて新宿でバーを経営』という妙な一項があるのは、この時のことである」という文章を読んで、『田中角栄研究全記録』はきっとおもしろいと思いました。

実際に読み始めてみると、これまで中学・高校・大学時代にぼんやりと見聞きしていたことが、関連づけられ、意味が立ち上がり、理解できるようになると俄然興味が湧きました。しかし、あまりにも膨大な情報量のため、頭の中で整理するのは難しく最初はノートの端にメモ書きしていましたが、次第にそれでは済まなくなってきました。

そこで、相関図や年表を書くことにしました。立花隆自身も本書の中で、さまざま年表を書いたことや、新聞紙大の人脈・金脈関係相関図を書いたと述べているので、このアプローチは王道なのかもしれません。この本を読んで、私の身についた習慣のひとつは、何かを調べる時や大河小説を読むときには相関図と年表を書くようになったことです。この習慣は役立ちました。

また調べ物をする際、膨大な資料を読むときには、「読もう」とせずに「眺め」ながら、ゆっくりとページをめくっていくと、自分の知りたいことが勝手に向こうから飛び込んでくるという助言も、とても役に立ちました。インターネット時代がやってくるまで、検索とはこの目で行うものでした。

さらに資料に年(西暦でも年号でも)を書き入れることは大切であるというアドバイスも大いに役立ちました。あの頃は若くてその意味がよくわかりませんでしたが、実際に長く人生を生きると、年を書き入れておくことがいかに役立つかを実感することになります。

しかしなんといってもこの本を読んで一番印象に残ったのは、権力と闘うということの心構えというか気概というか、命をかけてやらなければこのような取材や発表はできないのだということを知ったことでした。

 CIAは、急性心不全の自然死に見せかけて人を殺す技術を持ち、現にそれを実践している。(中略)
 急性心不全による〝自然死〟というのは、CIAでは、最もポピュラーに用いられている殺害方法なのである。
  かつて衆院の爆弾男として知られた横路節雄の死も、こうした毒物による謀殺だったのではないかと疑われている。横路の同僚であり、ともに第一次FX問題、インドネシア賠償汚職問題の追及にたち、児玉からたびたび脅迫された経験を持つ今澄勇はこう書いている。
   横路は、昭和四十二年六月、議員宿舎で急逝したが、私には、どうにも腑に落ちぬものが残っていた。
    私と彼は知人も共通で、宴席なども一緒の場合が多かった。それがある日突然二人とも血圧が百九十に上がったことがあった。慈恵医大・古閑内科部長に心房性期外収縮と診断され、一ヵ月絶対安静の命令を守らねばならなかった。(『現代』51・4号「汚職・疑獄・陰謀・謀殺」)
  今澄は自宅で静養してことなきをえたが、議員宿舎で一人住まいだった横路は、絶対安静の生活もできず、そのまま死んでしまった。今澄はこう続けている。
 「当時、横路はかねて噂のFX第二戦に備えて、熱心に勉強していた。私は、いまでも彼の死は謀殺だと信じている」
  ここで、「ある日突然、二人とも」と書かれているのは、実は、CIAとの接点があってもおかしくないある人物の宴席に招かれた日のことをさしている。
  こうした話を知ってから、実をいえば、私も取材班も〝急性心不全〟の影におびえながら仕事を続けている。想像をたくましくすれば、〝急性心不全〟におびえている人は、事件関係者の中にもいるようである。
  記者の間で、〝ニトログリセリン四人男〟と呼ばれている人々がいる。小佐野賢治、シグ・片山、大久保利春、某政府高官の四人である。
  いずれも、
 「心臓が悪いので……」
  といいながら、懐中のニトログリセリンをときどきなめているという。ニトログリセリンは心不全の特効薬なのである。
  この四人、もしかしたら、あまりに秘密を知りすぎてしまったために、いつCIAから一服もられるかわからないという恐怖で、ニトログリセリンをしょっちゅうなめているのではないだろうか。
  この四人のうち、某政府高官だけは、実をいうと、いまはニトログリセリンをなめていない。
  彼はトライスター問題のカギをにぎる人物の一人だったのだが、トライスター問題がひき続いている間だけ、「心臓が悪くて」ニトログリセリンをなめており、その問題が片づくやケロリと心臓がよくなり、ニトログリセリンを手にしなくなったという奇怪な病歴を持っている。

立花隆著『田中角栄研究全記録(下)』 講談社文庫(1982)
最初の太字は原文では傍点、後の太字は引用者によるもの

今回の訃報に接し、6月23日、田原総一朗氏も、毎日新聞の取材に答えて次のように述べておられます。

「立花さんは日本のタブーに切り込んだため、暗殺されるのではないかと思っていた。それくらい命を懸けたから書けたのだと思う。その勇気は見事だった。金権政治を絶つための選挙制度や政党助成金の制度改革にもつながった」

毎日新聞ニュースより一部抜粋https://mainichi.jp/articles/20210623/k00/00m/040/361000c


私が『田中角栄研究全記録』の上下二巻の文庫本を読んでいた1983年は、ロッキード事件の一審が大詰めを迎えていました。私はこの本を読んでようやく事件の全体像を理解したところで、朝日新聞社から出ていた『ロッキード裁判傍聴記』や『田中角栄いまだ釈明せず』を読み、次いで「朝日ジャーナル」に連載中の「ロッキード裁判傍聴記」を読み継いで現代に追いついたところで、10月12日、東京地方裁判所の第一審判決公判で田中角栄に対し懲役4年、追徴金5億円の実刑判決が言い渡されました。

私はそのニュースを、職場の、あの秘書課の本棚の前に立って目の前のテレビ画面で見ていました。なぜ懲役5年ではなく4年なのかと思いつつも、一国の総理大臣をペンの力で退陣に追い込み、さらに実刑判決が言い渡されたという事実に身が引き締まるような思いでした。

『日本経済・自壊の構造』

私は、ペンと知力で権力に立ち向かう立花隆に心酔し、文庫化されている本から順に、手に入る本を片っ端から読み漁りました。『日本共産党の研究(上・下)』『中核 vs 革マル(上・下)』『農協』『アメリカ性革命報告』『文明の逆説 危機の時代の人間研究』『ジャーナリズムを考える旅』『思考の技術』『「知」のソフトウェア』と次々に読んでいきました。

こうして本の題名を書くだけで、あの頃の空気が蘇ってきます。どの本も知的好奇心を掻き立てられました。次のページをめくる手が止まりませんでした。相関図を書き、年表を作りながら夢中で読みました。『日本共産党の研究』は特に力作でした。日々が充実し、生きる意欲が湧いてくるようでした。

あの頃、会社に定期的に経済誌などを届けてくれるビルの地下の本屋さんとはとても懇意にしていて、「今週号のこの雑誌、立花出てるよ!」と、よく私のために週刊誌や新刊書を持ってきてくれたものでした。持ってきてもらった本はもちろんすべて購入しました。「先週のもスゴかったよね!」などと立花隆の小さなファンクラブを作って応援しているような気分でした。

1983年、私は23〜4歳で、主な仕事はお茶汲みと灰皿の片付けでしたから、本を読む時間はいくらでもありました。本を読みながら一体全体自分はこんなところで何をしているのかと、握りしめた拳が震えるような日々を送っていました。

手に入る本はあらかた読み終わり、ノンフィクションのおもしろさに惹かれて、「大宅壮一ノンフィクション賞」受賞作品を過去に遡って読んだりしていましたが、ある時、やはり立花隆の本をすべて読みたいと、菊入龍介名義で1973年に書いたという『日本経済・自壊の構造』日本実業出版社をなんとかして読むことはできないだろうかと考えました。

神保町の古書店を歩くといっても発行部数が多いとも思えない本を見つけ出すのは容易ではないだろうなどと思っていた時、国会図書館でコピーをさせてもらえば良いと思いつきました。今はどういうルールかわかりませんが、当時、国会図書館に電話して聞いたところ、著者の承諾があれば全部コピーを取らせてもらえるとのことでした。特に書面でなくても電話での承諾で良いとのことでした。

本当のことを言えば、「本人の承諾書がないとダメですよ」と言ってくれたら、それを口実に立花隆に会いに行けたかもしれないのにと少し残念に思いながらも、立花家に電話をしました。

あの頃は、作家の自宅の住所や電話番号は、少し探せば簡単にわかる時代でした。すると女の人が出て「コピー? いいですよ。どうぞ」と言ってくれました。それでも「奥さんとお話ししちゃった」と思うだけで笑顔が抑えられないほどでした。

生まれて初めて国会図書館というところへ行き、荷物はすべてロッカーに預け、少しドキドキしながら『日本経済・自壊の構造』を書庫から出してきてもらって手に取り、そして本を丸ごと一冊コピーさせてもらいました。本を購入するより高いコピー代でした。

コピーを取りながら、「自分の人生を歩くにはどうしたらいいのか」「自分らしい人生とは何か」とそればかり考えていたことを、つい昨日のことのように思い出します。私は田中角栄を読んでも、共産党を読んでも、政治運動にはまったく関心が向かず、立花隆を読むと「これからの人生をどう生きていけばよいのか」という課題にばかり目が向きました。

そして私は、フランスへ行こうと決心するのでした。

『論駁』と『脳死』

1986年に帰国して再就職活動をしながら今度は『論駁I、II、III』そして『脳死』を読みました。

『論駁』は、(一審後に起きた)「ロッキード裁判批判を斬る」という副題がついていました。次から次に出てくる「迷」論者には驚き呆れました。言論界、出版界、法曹界に対する見方が変わりました。

有罪判決後も、田中角栄は「闇将軍」として政界に絶大な権力を持ち総理大臣メーカーとして君臨していましたが、1985年に脳梗塞で倒れ、時代は創政会を結成し、後に経世会を立ち上げた竹下登へと一気に動いていきました。

 世俗権力も世俗権力にひれ伏す人も、前から僕には侮蔑の対象でしかありませんでした。僕はこうした意味で、政治にかかわる人間とは、根本的に価値観のちがうところで生きてきました。そんな僕にとって、あんな奴らに負けて引き下がるかどうかは、自分の生き方の根幹にかかわる問題でした。絶対に負けるものか、とことん闘ってやると思ったわけです。
 1974年の前半は、ずっと中東を旅していたことは先に述べました。そのころ僕が好きだったのは、スピノザ(1632~1677年、オランダの近世合理主義哲学者)の「永遠の相の下に」という言葉でした。日常的な現象世界の背後には、唯一にして、無限で、永遠の真の実体が存在する。それは「神=自然」で、それを認識するためには、永遠の相の下に見ることが必要だとスピノザは説きます。砂漠の中に埋もれた古代の遺跡をひとり静かに見ているときなど、永遠の相の下に見るというのはこういうことかとつくづく実感したものです。
  田中角栄について書いていた二十年間をふりかえると、田中も僕も、本質的には、くだらないことに熱中していたものだと思う。どちらにしても、永遠の相の下に見れば、つまらないことです。

立花隆著『知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと』 文春新書(2020)

上の文章は、立花隆自身が当時を振り返って述べた言葉ですが、1986年に出版された『脳死』は、知的アドベンチャーとでも呼んだらいいのか、「神=自然」を探求する非常に興味深いテーマでした。

脳死については、1988年に『脳死再論』、1992年に『脳死臨調批判』と続きました。当時臓器移植についての議論が盛んで、私のような門外漢でも新聞やテレビが報じる脳死判定基準の問題点がわかるようになるという実用的な意味もありましたが、そもそも人間の死とは何かを突き詰め、「脳」という宇宙の構造と機能を知る大冒険譚でした。

「マザーネイチャーズ・トーク」での連載は、第一線のサイエンティストらの対談で、私はこれまで知らなかった世界へといざなわれました。対談相手は、河合雅雄(サル学)、日高敏隆(動物行動学)、松井孝典(惑星科学)、多田富雄(免疫学)、河合隼雄(心理学)、古谷雅樹(植物学)、服部勉(微生物学)の七人でした。

これに刺激されて読んだ多田富雄著『免疫の意味論』では、「脳」にばかり目が向いていた私は、「免疫」という概念にガツンとやられました。ニワトリとウズラのキメラの実験で、自己と非自己を支配するのは脳ではなく免疫系なのだと読んで興奮しました。「無知の知」、自らの無知を自覚するというのは実はワクワクする日々でした。

フランスから戻って来てからも相変わらず立花隆の本を持ち歩き、彼の著作について熱く語る私のことを、友人たちは「オバタリアン・ファン」と呼んでいました。実に言い当て妙と、私もなかなかこの渾名は気に入っていました。

ガルガンチュア立花と渡辺一夫

フランスにいた時、私はたまたま「ラブレー通り」というところに住んでいました。フランソワ・ラブレーは、15世紀から16世紀にかけて活躍した作家らしいということは知っていましたが、作品は読んだこともありませんでした。

ある時、立花隆の経歴を眺めていた時、新宿にゴールデン街で「ガルガンチュア立花」という飲み屋を経営していたことを発見しました。先に引用した『田中角栄研究全記録』の「まえがき」にあった、あのバーのことです。

ラブ・レターを書き続けるのをやめるとともに、もの書き家業もやめることにした。私の経歴の中に『1971年から72年にかけて新宿でバーを経営』という妙な一項があるのは、この時のことである

さすがに浅学な私でも、長年フランスかぶれをしてきたので「ガルガンチュア」がフランソワ・ラブレーの作品であることはかろうじてわかりました。そういえばそうだった、そもそも私は立花隆が東大仏文出身ということから、田中角栄を読み始めたのだったと思い出し、それではと、あの大著『ガルガンチュアとパンタグリュエル』を手に取りました。ルネサンス文学を代表する傑作大長編という誉高い作品でした。

この note の最初の頃に、渡辺一夫について二篇書いたことがありますが(005.アンベルクロード神父)(006.お末さん)、この大作を翻訳したのが渡辺一夫です。ところがこの作品は、私の「教養」ではまるっきり歯が立たないのでした。キリスト教の基礎知識もなければ、背景となっている歴史的史実もわかっていませんでした。フランス語も全然足りませんでした。作品の半分近い訳註にも註が欲しいという有り様で、「中世末期社会の権威と秩序を陽気に笑いとばす規模雄大な作品」などと言われても、私の眉間には皺が寄るばかりでした。

到底理解したとは言い難く、これを「読んだ」と表現して良いものか悩みますが、とりあえずガルガンチュアに出てくる理想郷、テレーム修道院の唯一の規則「汝の欲するところを行え」を座右の銘と生きて行こうと決心しました。

それでも、渡辺一夫という類い稀なるフランス文学者を知り、その随筆をその後大切に読み続けるきっかけを作ってくれたのも立花隆でした。

それにしても、若き日の立花隆が自分の新宿ゴールデン街のバーに付けた名前と、帝国ホテルの売店の名前が同じなのはなんだかおかしいと、ホテルの前を通りかかる度に思うのでした。

『精神と物資』

 1987年度ノーベル生理学・医学賞は、日本の利根川進博士に授与された。利根川博士の受賞理由は、「抗体の多様性生成の遺伝学的原理の解明」ということだった。
  同賞の選考にあたったスェーデンのカロリンスカ研究所は、
「利根川氏は、一連の卓越した実験により、幼弱な細胞が抗体を生産するBリンパ球に成熟する過程で、バラバラに存在している抗体の遺伝子がどのように再構成されるかの発見に成功した。この発見に次ぐ二年間、世界におけるこの分野の研究を完全にリードした」
 と、記者団に授賞理由を敷衍(ふえん)した。
 しかし、こう説明されても、よほどの専門家でないとその意味はわかるまい。
 記者たちもよくわからなかったのだろう。すぐに、
「トネガワの研究はどれほどすごいのか」という単刀直入な質問がとんだ。それに対して、選考委員の一人が、
「医学界の大きな課題を見事に解き明かした。百年に一度の大研究だ」と答えて、記者たちははじめてホホーッと感心したという。(中略)
 私はかねて生命科学に対してこういう関心を持っていたので、分子生物学の概説書的なものは読んでいたが、機会があれば、もう少し専門領域に踏み込んで、いま分子生物学の最前線がどの辺のところまできているのか知りたいと思っていた。
  だから、アメリカに行って、利根川さんに会ってこないかという誘いを「文藝春秋」編集部から受けたとき、すぐさま二つ返事で話に乗ったのだった。
 それから分子生物学や免疫学の参考書を山ほど買いこんで、予備知識をたくわえた上で、ボストンに利根川さんをたずね、延べ二十時間にわたるインタビューをして戻ってきたところである。
 そしていま、私はいちおう利根川さんの研究について語り得る立場にいる。専門的に深くとはいかないが、少なくとも一般の方には、利根川さんが何をどう研究し、その研究のどこがノーベル賞に値する評価を受けたのかを語れるところまでは話をうかがってきたつもりである。

利根川進・立花隆著『精神と物資:分子生物学はどこまで生命の謎を解けるか』 文藝春秋(1990)より引用 太字引用者

これまで私は、わからないところがあろうとも、相関図や年表を書きながら、立花隆の著書を読んできました。『精神と物資』の前に発売された『同時代を撃つ』も、PART1〜PART3まで読みましたが、わからないなりにおもしろく読みました。

しかしこの『精神と物資』は、私にはさっぱり理解できませんでした。今度は『ガルガンチュアとパンタグリュエル』とは違った「基礎的な科学的教養」が欠落していました。同じところをグルグルと何度も読み返しましたが、何も頭に入ってこないのです。使われている言葉の概念そのものがわからないのですからどうしようもありませんでした。私は「一般の方」には入れないのかと、随分がっかりした記憶があります。

もとより「知の巨人」と評される立花隆に、勝手に憧れ、熱を上げて著書を読みあさってきた私ですが、大学受験の時に理系がさっぱりダメで早々に私大に進学するしかなかった私には、これからの知的な旅には、もう後を追うことすらできないのかと心から残念に思ったことをよく覚えています。

目の前に宝の山があって、さぁお好きなだけどうぞと言われているというのに、知的体力がないばかりに、宝の山の前で立ち竦んでいる状態でした。

その後出版されていく『サイエンス・ナウ』『電脳進化論』などは購入しても、もう自分には理解できない世界なのだと、本の表紙を見ながら指を咥えている状態になっていきました。『サル学の現在』や『巨悪vs言論』のような本が出版されるとやっと自分の番がまわってきたなどと感じました。

6月23日に、元日本マイクロソフト社長の成毛眞氏が、Facebookで立花隆への追悼の言葉を述べておられました。

ショックだ。まさに巨星だった。
1995年ころ立花さんとビル・ゲイツの対談に陪席したことがある。それに先立ってビルに、立花さんの経歴や実績を表にして説明したことを覚えている。単なるジャーナリストではないし、アメリカ人のビルが立花さんを知っているとは思えなかったのだ。
2時間の対談のはじまってみると半分近くは、なんと人工知能についてだった。しかも、もちろんその言葉は使わなかったが立花さんは「シンギュラリティー」についてビルにしつこく質問しつづけたのだ。マイクロソフトの独占問題や経営法、パソコンの未来やインターネットなど後回しだったのだ。
そこにいる全員が唖然とするばかり、立花さんのしつこさに、ボクはビルの機嫌が悪くなると思い、必死に話題を変えようとした。ボクの知っているかぎり当時のマイクロソフトは人工知能など研究してなかったし、ビルも関心があるとは思わなかった。なにしろ25年前のことである。
それから15年、2010年代に入りディープラーニングが登場し、シンギュラリティーという言葉も生まれた。当時の立花さんは、少なくともビル・ゲイツよりも未来を見ることができる人だったと思う。いまから思うとCPUの性能向上曲線を見れば予想できることだったのかもしれない。それから何年も立花さんにはいろいろ教えていただいた。

Facebook 成毛眞氏の2021年6月23日の投稿より

このような知的興奮を覚えることは、私には叶いませんでした。誠に残念無念のひと言です。

それでもこの頃は新刊書がでれば欠かさず購入していました。共感覚について書いた時にも触れましたが(093.文字に色「共感覚」)、『臨死体験』のように、時々自分の番がやってくるとその時は狂喜乱舞するほどの興奮を味わいました。

しかし1990年代も半ばになると、私も中間管理職となり残業続きの日々で、書店への足も遠のきました。もう立花隆の記事の載った雑誌を届けてくれるような本屋さんもいなくなりました。今度の本も私には理解できないのかと思うと、少しずつ少しずつ、立花隆から離れていきました。

1998年から2005年まで足掛け8年70回に渡って『文藝春秋』に連載されていた「私の東大論」(のちに『天皇と東大』として単行本化)の時は、ようやく私の番がやってきたと喜んでいいはずだったのに、しばらくは連載されていることも気づかなかったほどでした。

あの頃は本郷近辺に住んでいたので、時折、買い物したり散歩したりする立花隆の姿を見かけることがありました。本当は駆け寄って「若い頃から大ファンです、握手してください、サインしてください」と言いたい思いが溢れそうでしたが、もう著作すら理解できない自分にそんな資格はないのだと、悲しい思いでそっと見つめるばかりでした。ものすごい書庫だという猫ビルもただ外から見るだけでしたが、写真を撮りに行ったこともありました。

NHKスペシャル 「がん 生と死の謎に挑む」

それでもNHKスペシャルや、TBSのニュース23などで立花隆の姿は目にしていました。科学的なことはもう活字で理解できないのだからと、情報源は映像ときっぱり割り切ることにして、番組を見ることに専念しました。

がんについては、元妻・橘雅子さんの肺がん、ジャーナリスト筑紫哲也の肺がん、物理学者の戸塚洋二の大腸がん、自身の膀胱がんと身近な方々が次々に罹患し、さらに命を奪っていく様子を活字や映像で知りました。私は橘雅子さんの著書も拝読しました。

2009年11月23日の「がん 生と死の謎に挑む」は、自身の膀胱がんの治療の過程で、世界の最前線の研究者たちを取材し、がんの正体を根源的に見つめ直そうとする番組は大変見応えがありました。

◇ ◇ ◇

東大で若い学生に教えたり、あるいは立教セカンドステージ大学で高齢学生に講義をしたりする様子を、書物やネットを通じて遠くから眺めていたことも思い出されます。この頃、立花隆に対する批判本も出版され始めましたが、私は立花隆自身の本も理解できないくらいなので、批判本もきっと理解の範疇を超えるだろうと、手にすることもありませんでした。仕事に忙殺される日々でした。

いつの頃からかテレビから聞こえてくる「たちばなたかし」と彼の名を呼ぶ声に思わず画面に目をやると、別の人物が画面に映っていることが多くなりました。

月に一度くらい「週刊文春」に掲載される「私の読書日記」は四半世紀に渡って私の読書のガイドであり続けました。しかし昨年の2月を最後に休載が続き、遂に連載が終了してしまい、病状が良くないのではないかと心配していたら今回の訃報でした。

◇ ◇ ◇

NHKによれば、「立花 隆さんをしのんで」と題して特集が組まれるそうです。◇マークのクローズアップ現代+は新しく製作され、◆マークの番組は再放送です。いずれもNHKプラスで同時・見逃し配信があるようです。

◇ クローズアップ現代+「立花隆 この国へ 若者たちへ~未公開の映像・音声資料~(仮)」【放送予定】6月30日(水)[総合]後10:00~10:30

◆ 1995年放送 NHKスペシャル「立花隆のシベリア鎮魂歌~抑留画家・香月泰男~」【放送予定】6月27日(日)[総合]後3:05~3:54

◆ 2005年放送 NHKスペシャル「立花隆 最前線報告 サイボーグ技術が人類を変える」【放送予定】6月29日(火)[Eテレ]前0:25~1:39 ※月曜深夜

◆ 2015年放送 ETV特集「立花隆 次世代へのメッセージ~わが原点の広島・長崎から~」【放送予定】6月29日(火)[Eテレ]前1:39~2:38 ※月曜深夜

◆ 2009年放送 NHKスペシャル「立花隆 思索ドキュメント がん 生と死の謎に挑む」【放送予定】6月30日(水)[Eテレ]前0:25~1:38 ※火曜深夜

◆ 2014年放送 NHKスペシャル「臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか」【放送予定】7月1日(木)[Eテレ]前1:00~2:13 ※水曜深夜

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なんだか、壮大な「片思い」について述べてきたような気がします。立花隆への長いラブレターを書き終わった気分です。今し方、NHKのサイトで彼の番組のタイトルを振り返ったら、あらゆる感情が一気に込み上げてきて涙がこぼれました。

お茶汲みをしていたあの頃から、還暦を過ぎるまで四十年間、遥か仰ぎ見る存在でしたが、立花隆が「この世に存在してくれたこと」に心からの感謝を込めて、謹んで哀悼の意を表します。ありがとうございました。


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