245.妻の経済力

私が子どもだった昭和40年代(1965年〜74年)、母の友人、今でいうママ友が家に遊びにきていて、あれこれよもやま話をしているうちに夕方となると「あら大変、もうこんな時間だわ、急いで帰らなくちゃ! うちの主人、お湯ひとつ沸かせないのよ」などといってそそくさと帰るという姿を何度も見てきました。

「うちの主人…」に続く言葉は、「お米ひとつとげないの」「おしょうゆがどこにあるのかも知らないの」など様々で、他にも「くつ下がどこの引き出しに入っているのかも知らないの」「洗濯物ひとつたためないの」などというバリエーションもありました。

子ども心に、私はそれが不思議でなりませんでした。まずひとつは、お湯を沸かすことなど「できるかできないか」の問題ではなく「やるかやらないか」の問題であって、お湯ぐらいは小学生の私でも沸かせるのに、大の大人がお湯を沸かせないというのは、一体どういうことなのかと私は不思議に感じました。

もうひとつは、もしも本当に夫にお湯を沸かす能力が欠如しているとするならば、私ならそれは深刻な悩みとして人に語ることだと思うのに、多くの人の口ぶりには深刻さはカケラもなく、いそいそと帰り支度をするのでした。

中には「主人ったら家に帰ってくると、くつ下は脱ぎっぱなし、背広もその辺に掛けっぱなしだから、毎日、主人のあとをくっついて洋服拾いをしなくちゃならないのよ」という人もいました。

小学生の私でも洗濯物は洗濯籠に入れ、着ていた上着はハンガーにかけているのだから、もし放りっぱなしにしているのなら、母が私を叱るように、このおばさんもちゃんと注意すればいいのにと思いました。そしてもしも注意しても聞かないのならば、もう拾わずに放っておけば良いのにと思いました。

◇ ◇ ◇

中学生になっても高校生になっても、母の友人・知人のこのセリフは続きました。さすがにその頃になると、この「うちの主人ったら…」のセリフは、決して夫の能力のなさを嘆くためのものではなく、それは主婦たちが自分の存在意義を示すためのセリフなのだと思うようになりました。

しかし、それにしても不思議でした。私ならば、病気などの理由でお湯が沸かせないのならばともかく、お湯ひとつ「沸かさない」ような人とは生活を共にしたくないと思いました。自分の下着やくつ下の管理もできない人や、あろうことか洋服を脱ぎ散らかし配偶者に後始末をさせるような人物となぜ一緒に暮らしていこうと思うのか、それは夫への疑問というより妻に対して疑問が湧きました。

なぜ多くの妻たちは、自分の食べるものも着るものも管理しない夫と暮らしていたのでしょうか。

私は、人生の大半、半世紀以上に渡ってこの問題について考え続けてきました。きっと家父長制を始めとした様々な要因が複合的に絡みあっていたことと思います。今では、私は、結局は「そうするものだ」という無言の「世間の掟」、あるいは「社会構造」によって、妻たちはこのような生き方を最良のものと捉え、生きていたのではないかと思っています。

私は子どもの頃から、このような女性を眺めながら、夫と違う考えを述べたい時にはどうするのだろうかと思っていました。私の祖母は、祖父が「黒だ」と言ったら、それが例え白だろうが赤だろうがピンクだろうが緑だろうが、「はい、それは黒でございます」と従いながら暮らしていました。

でも、私たち孫や、娘である母や、近所の人たちも皆んな、正しく賢いのは祖母であると知っていましたから、祖母もそれで不満もなく暮らしていけたのだと思います。でもそれでは祖母がというより、祖父が哀れに思われました。子どもながらに、祖母はきちんと祖父に意見を述べ、話し合い、二人で合意点を見い出す方がずっといいのにと思っていました。

しかしながら、私の考える「意見を述べる」あるいは「自分の考えを述べる」という行為は、「口答えする」と表現され、してはならないこととされているようでした。

私の祖父は祖母のことを大切にしていたとは思います。しかし、それは今日私が考える対等な夫婦愛とは違って、あくまでも主従関係における愛だったと思います。殿様が家来を、社長が従業員を大切に思うような関係に似ていました。祖母も祖父を大切にしていましたが、それも使用人がご主人様に仕えるような関係でした。

実際に、多くの妻が夫のことを「(うちの)主人」とか「(お宅の)旦那様」という風に呼び慣わしていましたが、それは経済力を持たない妻が自分の生活費を支払ってくれる配偶者のことを、自分の人生の雇い主だと無意識のうちに捉えていたからの呼称ではないかと感じていました。

祖父が亡くなった時、祖母はきっぱりと「充分に尽くした。思い残すことはない」と言いました。私はその祖母の表情よく覚えていて、祖母は任務を全うしたのだと感じました。祖母の日常は「仕事」「業務」だったのかもしれません。

私はいつの頃からか「経済的自立は精神的自立」だと思い、今もそう信じています。しかし、長きに渡り、女性は経済的に自立するのが難しい社会が続いてきました。

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私が子ども頃は、よく「男の甲斐性」という言葉を見聞きしました。妻を外で働かせることなく、夫が妻子の生活費をすべて賄い養うというのは甲斐性のある男にとっては当然のことでした。妻を正社員で働かせたり、パートタイマーで外で働かせては、妻子を養うことができない「甲斐性のない男」と見做されてしまうから「男の沽券にかかわる」のでした。

大物政治家や有名実業家ともなれば、お妾さんのひとりや二人を持つのが「男の甲斐性」だと捉えられていました。

平成元年(1989年)になってからも、時の総理大臣・宇野宗佑が神楽坂の芸者の「指三本」を握って愛人になれと言ったというスキャンダルで政権の座を追われましたが、その時の騒ぎで一番私の印象に残っているのは、総理大臣の言動そのものよりも、「芸者たるものそのようなことを告発するとは罷り成ぬ」という世間の声でした。男に都合の良い世の中だと感じました。

今ではあまり使われなくなった表現に「共稼ぎ」という言葉がありました。「共働き」のことです。「共稼ぎ」という表現の中には、二人で稼がないと生活そのものが成り立たないほど夫の稼ぎが少ないというニュアンスがありました。

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今の小学生の父親で、お湯も沸かせ(さ)ない人は最早いないでしょう。厚生労働省発表の共働き等世帯数の年次推移をみると、専業主婦世帯と共稼ぎ世帯は、1980年には、1,114:614(ほぼ2対1)であったものが、2022年には、539:1,262(ほぼ1対2)になっています。

残念ながら、私が小学生だった半世紀以上前の比率を見つけることはできませんでした。おそらく3分の1の世帯が共働き世帯になったので、厚生労働省(当時は厚生省)も1980年から統計を取り始めたと推測されます。それまでは、農家や自営業などを除く大半のサラリーマン家庭では専業主婦が一般的でした。

厚生労働省の令和5年度男性の育児休業等取得率の公表状況調査の速報値によれば、従業員1,000人超企業のうちでは、男性育休等取得率は46.2%でした。比較対象は同じではありませんが、厚生労働省発表の令和4年度雇用均等基本調査(p.16)における男性の育児休業者の有無別事業所割合の令和元年は10.5%、同令和2年15.8%、同令和3年は18.9%、令和4年は24.2%、と勢いよく伸びているのがわかります。

2023年のジェンダーギャップ指数では日本は世界第125位であり、まだまだ課題山積ではありますが、少しずつ時代が変わってきたのを感じています。



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