004.初めてのキッス

小学生の頃、私の住んでいた家の近くには、まだまだ米軍基地が点在していました。有刺鉄線で囲まれた基地の中は、青々とした芝生が敷き詰められ、ブランコや滑り台もあり、白いペンキで塗られた米軍ハウスが点在していて、まるで外国そのものでした。

ところがどういうわけか、基地の外に住んでいる米軍関係者もいました。普通の民家に紛れて、たまに米軍の将校(?)が家族で住んでいたのです。

その頃の私たちは、学校から帰るとランドセルを家に放り投げるようにして、そのまんま仲間と駆け出していくような毎日で、夏は遊び疲れると駅前にできたばかりの銀行に行って、クーラーで涼み、冷水機でのどを潤し、元気を取り戻すと再び表へ飛び出していきました。

そんなある日、何がきっかけだったのか、リッキーというアメリカ人の少年と知り合いになりました。私たちは小学2年生、リッキーは4年生でした。なりゆきから彼の家でマンガを読もうということになりました。私たちは3人か4人で男の子もいました。リッキーはアクセントのないきれいな日本語を話しました。

リッキーの家は、砂利道に茶色っぽい普通の民家が立ち並んでいる一角の一番奥にあって、壁がピンク色をしていました。家の扉を開けると、いわゆる「玄関」はなく、靴を履いたまんま家の中に入りました。広い部屋の中はまるでテレビの中の「奥様は魔女」みたいでした。絨毯が敷きつめられ赤いソファがありました。金髪のリッキーのママが出てきて、日本語は話しませんでしたが歓迎してくれているのはわかりました。

みんなで赤いソファにすわって、リッキーが持ってきてくれたマンガを手に取ると、リッキーママがみんなにオレンジジュースを出してくれました。おしゃれなグラスに入っていました。マンガの吹き出しのセリフはすべて英語で書かれていて、左上から右下に向かって読むようでした。しばらくジュースを飲みながらマンガをめくっていましたが、そもそも意味がわからないのでみんなすぐに飽きてしまいました。

そうしたらリッキーが2階の僕の部屋へ行こうと誘ってくれました。リッキーの部屋にはベッドがありました。その場にいた全員が「ベッドだ…」と心の中でつぶやいていたと思います。みんな最初は恐る恐るベッドに腰掛けて、そのうちベッドの上でゴロゴロ転がったりもしました。

リッキーは壁にかかっていたギターを手に取ると、器用な手つきで曲を弾き鳴らし、英語の歌を歌い始めました。マンガと違って言葉はわからなくても英語の歌は飽きることなく、音楽っていいなと思いました。

ひとしきり何曲も一緒に歌った頃、窓の外で車のエンジン音が聞こえてきました。リッキーは「あ、パパだ!」と言ってギターをおいて階下に駆け出し、私たちも一緒に階段を駆け下りていきました。

すると玄関扉が開き、茶色いスーツを着た背の高いリッキーのパパが帰ってきて、金髪のママをぎゅっと抱きしめてキッスをしました。一同呆気にとられて、誰一人言葉を発することなく、多分、お邪魔しましたとも言わず、リッキーの家をおいとましました。

お父さんが夕方日の高いうちに車で帰ってくることも、奥様は魔女みたいな居間の調度品も、赤いソファも、オレンジジュースも、英語のマンガも、ベッドも、ギターも、何もかもすべてを吹っ飛ばすほどの衝撃でした。


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