101.大波小波

本稿は、2019/08/24に掲載した記事の再録です。

今年で還暦。昭和を30年、平成を30年生きてきました。この年になって思うのは、いよいよ人生の第3ステージに入っていくのだということです。

子どもの頃、長縄とびで大波小波をしてよく遊びました。長縄とびの端と端をふたりの子どもが持って大きく回しながら。「おはいんなさい」などと声をかけると、仲間が次から次に縄とびの中へ入っていき、大勢で一緒に縄とびを跳ぶというあの遊びです。

いろんなルールがありましたが、子どもがどんどん輪の中へ入っていって、十人くらいになると、今度は先頭の子どもが輪から跳び出し、最後尾に新しい子どもが入ってきて、常に十人くらいの人数を保ちながらずっと跳び続けるというのがありました。

今、私は「社会という長縄とび」の先頭あたりを跳んでいて、もうまもなく縄から跳び出なくてはならないような気がしています。学校を卒業すると、「社会という長縄とび」が「おはいんなさい」と声をかけてくれて、勇気を出して跳び込み、みんなと一緒に足並みを揃えて跳び続けてきました。

でも、そろそろいわゆる「現役世代」を退く時がやってきて、これからは「引退生活」「老後生活」を迎えることになるのです。先日、入院した時、看護師さんに車椅子でトイレに連れて行ってもらって、それほど遠くない時期に日常がこのようになるのかと思い愕然としました。

もしかすると、この長縄とびは「社会」ではなく「この世」かもしれません。赤ちゃんとしておぎゃあと生まれてきた時、「おはいんなさい」と言われ、この地球上で大勢の人々と共に生き、最期はそっと縄とびからおいとまするのです。

こんなことは今改めて書くまでもなく、千年も昔に鴨長明が『方丈記』で述べていることと同じかもしれません。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし

行く川は常にそこにあるのかもしれないけれど、でもなんだか、私にはみんなと一緒に足並みを揃えて跳んでいたあの大波小波の中から、ひとり抜けていくような一抹の寂しさを感じてしまうのです。


<再録にあたって>
初めて note に記事を投稿してからおよそ二年が経ちました。あっという間の日々でありながら、思いもよらぬ感染症で日常が変わり、さらにオリンピックの延期によって、日本社会の様々な問題点が如実に浮き彫りになった日々でした。

それでも社会という大波小波は回り続き、人々が社会の細胞のように新陳代謝を繰り返していくのだと感じています。


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