228.追悼・山田太一
12月1日、脚本家の山田太一氏の訃報が報じられました。2023年11月29日に老衰のため死去。89歳でした。
青春時代、多感な人格形成期に読んだ本や観た映画やドラマは、人生を決定づけるような影響を受けることがあります。私の場合、自分の人格の「芯」の部分で山田太一のドラマの影響を大きく受けました。もしも山田太一のドラマを見ないで大人になったならば、今とは違う人間になっていたと感じています。
「男たちの旅路」
山田太一の脚本だと初めて意識しながら見た最初のドラマは、1976年(昭和51年)2月28日(土)から始まったNHKの土曜ドラマ「男たちの旅路」でした。私は16歳。高校一年生でした。
「男たちの旅路」の登場人物は、鶴田浩二演じるガードマンの吉岡、ビルの屋上から飛び降り自殺をしようとしているところを見回りに来た吉岡らに救われる桃井かおり演じる島津悦子、そしてチャラチャラとした軽薄感を振り撒く吉岡の部下、水谷豊演じる杉本陽平。
この3人、つまり戦中派の古参ガードマンと戦後生まれの若者たちが、警備会社を舞台に、世代間の考え方や価値観の違いを激しくぶつけ合いながら、葛藤、反発、共感し合いながら、さまざまな社会問題を浮き彫りにしていくというドラマシリーズでした。
鶴田浩二が演じたガードマンの吉岡という人物は、特攻隊の生き残りという設定でしたが、実際に俳優・鶴田浩二は大正13年(1924年)生まれで終戦時に二十歳、学徒出陣により大井海軍航空隊整備科予備士官であり、出撃する特攻機を見送っていたそうです。
里山社発行の山田太一セレクション『男たちの旅路』の「復刊に寄せて」において、このドラマを書くにあたって山田太一がプロデューサーの近藤晋と共に鶴田浩二の自宅を訪問した初対面の様子を次のように書いています。
毎回、ドラマを見るたびに登場人物のセリフが心に残りました。このシナリオ・セレクションからいくつか拾ってみます。
私の父も大正13年生まれでした。鶴田浩二のようなハンサムではありませんでしたが、ものの言い方、考え方、仕草、立ち振る舞いなどがよく似ていました。桃井かおり(1951年生)や水谷豊(1952年生)は、高校一年生だった当時の私から見ればもう働いている立派な大人でしたが、いかにも戦後の新世代を象徴していました。おもしろいことに私の心の声を代弁してくれたのは、戦後生まれの若者役の桃井かおりや水谷豊ではなく、特攻隊の生き残り役の鶴田浩二でした。
ちょうどこのドラマが放映された頃だったと思いますが、ある時、父がポツリと「船には、波や風が高くなって船体傾いても元に戻る復原力が働くものだが、社会にも船と同じ復原力というものがある。しかし、近頃の世の中をみていると、その復原力消失角を超えてしまったように感じる」と言ったことがありました。
長い時が経つにつれて、私の中ではその言葉はいつのまにか鶴田浩二の台詞のように記憶がすり変わっていくような感覚がありました。なぜなら私には山田太一という脚本家は、その復原力消失角ギリギリの社会を描いていたように思えてならなかったからでした。
土曜日夜8時、銀座の電光掲示板に「土曜日ドラマ」という文字が走りながら始まるオープニングを見ては、姿勢を正して見るような厳粛さを覚え、同時に期待に胸を膨らませていました。あのワクワク感は今でも思い出すことができます。
このドラマを思い出す時いつも感じるのは、私たちが若者だった時代には吉岡警部補のような「若者を叱ってくれる大人」がいたのに、今の若者には、そのような大人がいなくなってしまったということです。そして若者を叱る役割を担うべきその大人とは、まさしく我々自身であるはずなのです。
鶴田浩二は、1987年に62歳で亡くなっています。1977年のドラマ放送時には52歳でした。今の私よりもひとまわりも年下ですが、信念をある生き方をした大人でした。彼だけでなく、あの世代に共通した生き方であったように思えます。
我が世代の不甲斐なさを嘆いていても仕方ないのですが、亡き瀧本哲史氏が2012年6月30日に東京大学の伊藤謝恩ホールにて行った「2020年6月30日にまたここで会おう」の動画を見ていた時、瀧本哲史が次のように語ったことに私は衝撃を受けました。
我々世代は中高年世代として、価値観や利害が若者世代と「対立関係」にあると当時40歳の瀧本氏が10代、20代の若者に語っていました。中高年を分断せねばならないとも冗談まじりに呼びかけました。
私は、自分の生き方を大いに反省しました。若者に迎合すればよいということではもちろんありませんが、こんな風に若者に対立関係を感させる社会を作ってしまった我々世代について振り返る時に、私にとってひとつの指標になるのは、山田太一脚本の「男たちの旅路」でした。私たちは若い世代を叱ったり、抱きしめたりしてこなかったのではないかと思うのです。
このようにことあるごとに、私は山田太一のドラマを思い出し、自分の生き方を省みてきました。
このドラマにまつわる記憶で印象深かった回のひとつに、脊髄損傷のため車椅子生活を余儀なくされている少女役が出演する最終回「車輪の一歩」(1979年11月放送)があります。
車椅子の若者に対して、鶴田浩二扮する吉岡警部補は次のように語ります。
実は、このシーンを思い出したのは、放送されてから10年ほど経った頃のことでした。その頃、私は外資系の企業に転職していました。その会社では終業後に英語力が不足している社員向けに講師を呼んで、英会話のグループレッスンがありました。
講師は英国人の女性でした。ある時、彼女は次のように言いました。「日本でスーツケースのような大きな荷物を運んでいても、誰も助けてくれない。英国ならすぐに誰かが助けてくれるのに」。それを聞いて私は確かに欧州にいると、ちょと大きな荷物を運んでいるとすぐに何本もに手が差し伸べられ、段差を上げてくれたり、列車に乗せるのを手伝ってくれたと思いました。
すると、同じグループレッスンの生徒である同僚社員が「自分で扱いきれないような大きな荷物を持っている方がいけない。人に迷惑をかけないようにするのは最低限の社会のルールだ」と言いました。するとすかさず英国人講師は「では、あなたは、車椅子の人や老人は人に迷惑がかかるから外に出るなというの?」と切り返し、同僚社員の口を封じたことがありました。
あ、これは山田太一の「男たちの旅路」だと思いました。
このドラマの最後シーンは、車椅子の少女は、駅の階段の下で意を決して、最初は小声で、やや大きな声で、最後に大声で「どなたか、私を(階段の)上まであげてください」と声をあげ、そしてやがて見知らぬ3人に運ばれて上がっていき、それまで世間の冷たい仕打ちから娘を守ろうと家に閉じ込めておこうとした母親が、それを泣きながら見守るシーンで終わります。
日本におけるボランティア元年は1995年、阪神・淡路大震災がきっかけだったと言われていますが、その15年以上も前にこのドラマは放送されました。今日整備されつつあるバリアフリー社会の実現のためにも、私はこのドラマが人々の心の中に小さな苗木を植えていったと感じています。
「男たちの旅路」の音楽はミッキー・吉野で、突き刺さるような音が印象的でした。
「岸辺のアルバム」
1977年(昭和52年)6月24日から9月30日までTBSで放送された「岸辺のアルバム」にも、私は大きな影響を受けました。放送当時私は高校3年生でした。前年放送に「男たちの旅路」に感銘を受けた私は、新しい山田太一脚本の作品を大いに楽しみにしていました。
このドラマでは、多摩川の岸辺に住む両親(杉浦直樹と八千草薫)と大学生の長女と高校3年生の長男(中田喜子と国広富之)の四人家族が、一見幸せそうに見えて、実はそれぞれに家族に言えない秘密を抱えながら生きています。そこに1974年の水害が襲いかかり必死に家族のアルバムを救い出そうとします。
私は小田急線沿いで育ったので、このドラマの舞台となった多摩川にはいくつもの思い出がありました。そもそもこのドラマの題材になった1974年の水害では、私の小中学校の同級生の家も床上浸水の大きな被害に遭いました。その時のことは以前 note に書きました。
このドラマが放送された1977年の家庭用ビデオの普及率は極めて低く、1975年にベータマックス、翌1976年にVHSと家庭用ビデオが発売されていましたが、私の友人で、家にビデオデッキがあった子はたった一人しかいませんでした。我が家にも当然のようにビデオはなく、そのためドラマが始まる毎週金曜日午後10時前から私はそわそわしてテレビの前を行ったり来たりしていました。
それでも、この「岸辺のアルバム」は一度も欠かさず毎週見ました。毎週ゆっくりと回を重ねていきましたが、15回中の12回目の回で主人公の長男繁の心の堤防が決壊する急激な展開が起き、その後ドラマの終盤で、台風により多摩川の堤防が決壊します。このドラマでデビューした国広富之はゴールデン・アロー賞放送新人賞を受賞するなど高い評価を受けました。
この長男は私と同じ高校3年生という設定でした。とはいえ実際の俳優・国広富之は私よりも6歳年上でしたから親近感が沸くということはありませんでしたが、同世代の家庭がドラマになっているという意味では、「男たちの旅路」とは比べものにならないほど身近な設定でした。
山田太一の訃報に接して、是非もう一度「岸辺のアルバム」を見たいと思い、動画サービスで全編を見直し、原作とシナリオに目を通しました。原作は、1976年から77年にかけて東京新聞、中日新聞、北海道新、西日本新聞で連載されたものです。父親の取り扱う「物件」が「医学解剖用の死体」であるところがドラマ脚本と違っていました。
山田太一、倉本聰、向田邦子は、当時から特別感があって、20代の頃手に入る3人の脚本のほとんどを読破しました。脚本というのは、小説とはまた違ったおもしろみがあって、一時期色んな脚本家の作品も読み漁りました。当時は、原作に交通事故死が出てきても、スポンサーが自動車会社だと病死に変更されるのだとかとまことしやかな噂もあって、よく原作と脚本の読み比べをしたのも懐かしい思い出です。
ドラマのタイトルにもなっているアルバムですが、妻が夫に対して次のように述べるのは象徴的です。
今の二十代の人が聞いたら驚くでしょうが、初めて私が「ワンオペ育児」という言葉を聞いた時、何が問題なのか意味がわかりませんでした。なぜなら私が育った時代には、ワンオペ育児はどこの家庭でもごく当たり前のことでした。岸辺のアルバムの家族と同じように、周りを見渡しても、父親は毎晩遅くまで仕事をし、夜中まで接待をして飲んだくれて帰宅し、週末も取引先とのゴルフがあり、父親も自宅に住んでいながら、ほとんど母子家庭状態という時代でした。
何十年ぶりかに全編を通して見て、あの時代の空気に浸って懐かしく思いました。音楽はもちろんジャニス・イアンの “Will you dance ? “です。以前に書いた「009.ジャニス・イアン」をこの稿の末尾に掲載致します。116回目にも再掲し、多くの皆様にコメントいただきました。私にとって宝物のコメントです。ありがとうございました。
「想い出づくり。」
1981年9月の「想い出づくり。」については、以前も「017.お見合い結婚」で触れたことがあります。私が大学4年生の時に放送された、同年代の森昌子(1958年生)、古手川祐子(1959年生)、田中裕子(1955年生)の3人の、家族を巻き込んでの結婚問題についてのドラマでした。倉本聰脚本の名作「北の国から」の裏番組でしたが、当時は「想い出づくり。」の方が高視聴率だったという人気番組でした。
あの頃は女性にとって結婚とは「永久就職」などと言われた時代でした。私自身は、経済的自立こそが精神の自立だと思って生きていましたが、「お嫁にいく」ということは、当時の若い女性にとって何よりも優先すべき課題という空気が社会を覆っていました。
令和の今よりも、もっとずっと「世間体」が幅を利かせていた時代、男女雇用均等法もまだなかった時代、「女はこうあるべき」という世間の掟や両親の期待に押し潰されたくないと抗いながら、でも結局、敷かれたレールの上を進んでしまうという私の世代の身近な問題が描かれました。
「ふぞろいの林檎たち」
1983年5月から始まった「ふぞろいの林檎たち」も忘れられないドラマでした。第一回のタイトルは「学校どこですか?」でした。「定員割れの国際工業大学」という架空の大学に通う仲手川良雄(中井貴一)、岩田健一(時任三郎)、西寺実(柳沢慎吾)の男子学生3人を中心にこのドラマは展開します。
この3人が女の子を集めようと「ワンゲル愛好会」を立ち上げますが、やってくるのは津田塾に通っているという美しい二人の女の子、水野陽子(手塚理美)と宮本晴江(石原真理子)、そして東洋女子大というこちらも架空の「品のいい学校」からきた「相当に肥っていて容貌もいいとはいえない」谷本綾子(中島唱子)の3人です。
ところが津田塾から来たというのは嘘で、実は2人は看護学校の生徒なのでした。「何故バカな嘘ついたかっていうと、よく頭に来ることがあるの。看護学校の生徒だっていうと、四年生の大学行っている女性より、二三段低いみたいに扱う奴がいるのよ」と言うのでした。
一方、東洋女子大から来た谷本綾子役は、「容貌の不自由な人募集します」というオーディションがきっかけでデビューした新人女優・中島唱子が演じました。
それに「東大出て、三菱商事へ入って、一年でひきぬかれてやめて、いまはある研究所で、なんかすっごく大規模に、大衆を操作する研究をしている」という触れ込みの本田修一(国広富之)と、個室マッサージ店でアルバイトをしながら本田と一緒に暮らしている女子学生の伊吹夏恵(高橋ひとみ)が絡み合いながらドラマは進みます。
さらに3人の父母、兄、兄嫁などの家族も重要な登場人物です。ドラマは見る人によって心に残るエピソードはそれぞれだと思いますが、私の場合は、特に二つのエピソードが強く印象に残りました。
一つ目。時任三郎演じる学生は、アルバイト先の中小企業の社長さんから評価され就職が内定していましたが、ひょんなことがきっかけで有名な大企業・三友商事に入社が決まり、内定していた中小企業の内定を辞退します。高校時代に何事も一流を求める両親に反発して家出同然に家を飛び出していましたが、三友商事内定をきっかけに英語の猛勉強も始め、親とも和解します。
親に押し付けられた一流でなければならないという価値観にあれほど反発したというのに、結局は、親と同じ価値観を選んでしまうのは哀しいほどです。しかし結局三友商事の内定は不可抗力に取り消されてしまい、母親から「親に恥をかかせて、いつからそんな出まかせをいうような男になったのか」と罵倒されます。
二つ目。容貌の不自由な有名女子大学の女子学生は、3人の男子学生に相手にされません。自分たちは学歴コンプレックスにまみれている男子学生ですが、容貌の不自由な有名女子大生よりも、二三段低いみたいに扱われる看護学生であっても美人でさえあればずっとずっと価値があるのだという世の男性の価値基準に私は少なからず傷つきました。
特に、容貌が不自由な女子学生が、柳沢慎吾演じる学生と会うたびに「ごめんね」「私と歩くと、はずかしいわよね」「お小遣い、あげる(と財布を出す)」「でも、私と逢って、なんか、いいこともなきゃ(と五千円札を出す)」とお金を渡す痛々しさには、我がことのように切なくなりました。
このドラマの放映時には、私はもう四年生大学を卒業して二年目の新入社員でした。それでもほぼ同世代の若者たちが抱える等身大の悩みを共有するドラマでした。
「いとしのエリー」を始めとするサザンオールスターズの数多くの名曲が効果的に使われたドラマでした。人気が高く、第四シリーズまで制作されました。今回「ふぞろいの林檎たち」の動画も見返し、懐かしさに心熱くなりました。ドラマには「時代」が封じ込められています。
他にも、1979年4月放送の「沿線地図」、1983年放送の「早春スケッチブック」など70年代から80年代にかけて忘れられない山田太一作品があります。できるものならばすべてのドラマを見直し、脚本を読み返し、山田太一の作品に改めて感謝したいと思っています。ご冥福をお祈りします。
ジャニス・イアン(再録)
台風19号の同時多発的な堤防決壊の映像を見つめていると、決まってジャニス・イアンの “Will you dance ?” が耳元で鳴り始めます。
これは1977年(昭和52年)にTBSで放映されたドラマ「岸辺のアルバム」の主題歌だったもので、番組冒頭で、多摩川が決壊し、家々が濁流に飲み込まれていく映像と共に毎週この歌が流れました。
脚本家の山田太一は、このドラマでこれまでの温かいファミリードラマとは一線を画した、新たなジャンルを築いたと言われたものでした。
このドラマでは、多摩川の岸辺に住む両親(杉浦直樹と八千草薫)と大学生の長女と浪人生の長男(中田喜子と国広富之)の四人家族が、一見幸せそうに見えて、実はそれぞれに家族に言えない秘密を抱えながら生きています。そこに1974年の水害が襲いかかり必死に家族のアルバムを救い出そうとするのですが、そのアルバムとは、真の家族の姿というより偽りの家族の姿の象徴であるという暗示がなされるのでした。
小学生から中学生にかけて毎日のように一緒に遊んでいた友人の家も、この時、東京都と神奈川県の都県境を流れる境川の氾濫で一階が水没してしまいました。友人一家は近くの公民館に避難していて無事でしたが、被害は大変なものでした。
水が引いてから、私たちも及ばずながら、濡れた家財道具を運んだり、食器を洗ったり、書類を乾かす手伝いをしました。白衣を着た保健所の人が大勢やってきて、片手でシュコシュコする昔ながらの噴霧器で白い消毒液をあちこちに撒きながら「疫痢に気をつけてください」と言っていたことを思い出します。
友人の家の庭には古井戸があって、夏は冷たく冬は温かい水が飲めて、外を駆け廻って遊んでいた我々にとっては便利な井戸でした。けれどもその水害以降は飲めなくなってしまいました。
そんなことも思い出しながら、小田急線で多摩川の鉄橋を行き来しながら、毎朝毎夕、通学・通勤で鉄橋を渡るたびに、私の耳の奥ではいつもジャニス・イアンの “Will you dance ?” が鳴っていました。長年に渡って、私の多摩川のテーマソングでした。
ずっと大人になって、インターネットが日常になったある日、ふと、どんな歌詞なんだろうと思って調べてみたことがありました。若い頃に聴いた外国の曲の多くは、歌詞の意味をまったく知らずにサビの部分だけを口ずさんでいたものです。
歌詞を見てひどくショックを受けました。こんな内容の歌だとは知らずに、気軽に口ずさんでいましたから。
門外漢であまりに稚拙で恥ずかしいのですが、試訳を添えてみました。Youtubeで、多くの映像や歌声、専門家の訳詞を見ることができるので是非お聴きいただきたいと思っています。
ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した時、ジャニス・イアンも受賞すればいいのにと思ったのはきっと私だけではないはずです。
ジャニス・イアンには、”Love is blind” や “At Seventeen” など他にも名曲は数多くありますが、この "Will you dance ?" は私にとっては特別です。歌詞の内容を知った今となっては、名作ドラマ「岸辺のアルバム」の主題歌はこの曲以外には考えられません。
この世の矛盾と感情を歌う文学者、ジャニス・イアン。彼女の歌を脳裏で聴きつつ、すべての不条理が濁流に押し流されてしまえばいいと思いながら、今日もまたニュース映像を見つめてしまいます。
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