震災とわたしと姉

去年、こんなものを書いてました。
読み返したけど読み辛かったので
少し編集しました。それでも長い。
伝えたいこと詰め込み過ぎてる感はある。
でもどうしても書きたかったから許して。


今回はその後の桃春家と
お姉ちゃんの話をしようと思います。


東日本大震災の前に大きめの地震があり
その時に落ちた物などは
ほとんど場所を変えていたので
家の中の大きな被害はあまりなかった。

幸いなことに水は出たので水には困らなかったし
ガスコンロだったのでお湯も沸かせた。
非常食はなかったけどご飯は食べれた。

ただ電気はつかなかったので
11日の夜はラジオを聴き
蝋燭の明かりで過ごした。
何があってもいいように
リビングに服を置いて3人で寝た。
たびたびくる余震とサイレンの音に
心が休まらなかった。

12日の朝
父は車の中のテレビでニュースを見ていた。
母はそんな父の様子にイライラしていた。
私は父の車で携帯を充電させてもらった。
その時に原発のニュースを知った。

うちの家の立地のおかげなのか
停電は12日の昼頃に解除された。

テレビを見ていろいろなことがわかった。
すごく広い範囲で津波が押し寄せたこと。
無事に救出されている人たちがいること。
行ったことのあるお店に
人が取り残されていること。
原発が爆発したこと。
いろんなニュースを見たけれど
どこにもおばあちゃんの情報がなかった。
うちのおばあちゃんの住んでいた地域は
小さな町のせいもあって情報がなかった。
母は日に日にいらいらしているというか
諦めの表情を見せるようになった。

家から出ることもできず
ただひたすら家で過ごした。

いろいろあって3日後に
おばあちゃんを助けに行くのだけれど
それはまた今度。


まともに外に出たのは4月になってから。
ライフラインは比較的早く復帰したけど
電車が動いていなかったので
学校には行けなかったし
春休みに予定していた東京合宿はなくなった。

母は私が勉強できていないことと
部活ができないことにいらいらしていた。

地震の1週間後くらいに顧問から
「体育館の片付けが甘い」
というお叱りメールが届いたけど
それは普通にイラッとした。
早く出ろって言ったじゃんか…。

始業式は少し遅くなったけれど
4月には学校に通うことができた。

書いてはみたけど
被災地に住む人の中では
比較的恵まれていたとは思う。
大変だったけどね。


一方その頃
姉は宮城県仙台市にいた。

地震の後、母に連絡が来てから
1週間近く連絡が途絶えたのは
携帯の電池が切れたから。
予備バッテリーは充電してなかったそう。

実際に姉に会えたのは4月になってからで
その間にとっても痩せていて驚いた。

姉は地震の後、何日か家で過ごしたけれど
食べ物がなくなったから外に出たんだって。
近所のお米屋さんが毎日おにぎりを
売ってくれたらしくそれを食べて過ごしていた。
あれがなかったら大変だったって話していた。
普段の移動手段が原付だったので
ガソリンが入れられなくて歩き回ったらしい。
一度だけスーパーに行ったら
物の争奪戦や人の怖い部分が見えて
行くのをやめたって話していた。
大学は被害がひどくて大変そうだった。


姉が一番怒っていたことがあって
「うちの教授が近々大きい地震が起こるって
ずっと言い続けてたのに信じる人が少なかった。
この地震は予測できてたんだよ。」
って地学を勉強していた姉は話していた。

今はよく南海トラフ地震はそのうち来るって
ニュースでやってるところを見るけど
ああいう予測はできていたんだと思う。

予測されているんだから備えようね。

まとめ
・やっぱり備えは大事
・これをきっかけにいろいろ確認しよう


WBCで朗希くんが活躍してて最高でした!


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