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楽園はまだ遠く

 ぼんやりと標識を見ながら歩いていたら突然体の大きな男がぶつかってきた。ぶつかってきた、のか、わたしがぶつかったのかもよく分からない。それでもかなりな衝撃で、こういう時の常でとっさに背負っていたリュックサックをぎゅっと握ったが、別に物盗りなわけでもましてや命を取りたいわけでもない。どしん、という衝撃を思い出して嫌な気持ちになりかけるが、ただ雑なだけだ、と思うことにする。

 記憶の中にある空港よりそこはずいぶん雑多で、到着フロアと出発フロアが同じなのか、免税店となぜか家電を置いてある店舗がいくつか並んでいた。イミグレーションでパスポートを出すと、パスポートナンバーで管理しているのであろう、ビザ取得の証憑を求められることもなく、あっさりと出口の方を指し示された。すでに回り始めていたターンテーブルから自分のスーツケースをさっさと取り上げて外に出る。すぐに、わたしの名前を掲げた迎えのドライバーと目があった。

 この国に来るのは二度目で、前回はここに住んでいた友人が迎えに来てくれた。もうずいぶん昔のことだが、その時のことを思い出して少し笑う。持っているスーツケースはその時と同じもので、荷物の中身もほとんど同じなのだから、何も変わっていないようなのだが、気づかないうちに何年も何年も経っている。いつまでも20代のつもりでいるけれど、もう40も幾つか過ぎて、本当だったら思い立って、軽々しくこんな旅をする年齢でもないのかもしれない。

 褐色の肌のドライバーに近づくと彼はにっこり笑った。名乗ってから、ちょっと買いものをしたいから少し待っていて、というと彼は頷いて迎えの列から少し離れた。蒸し暑い。着ていたパーカーを脱いで、ATMで少しだけ現金を下ろす。レートだけなんとなく頭に入れて、車へ向かう。

 車はプリウスだった。事前にネットで簡単に手配しておけるのだから楽でいい。その場で車を拾ってもいいが、交渉することを考えると煩わしかった。車を拾うのも、物を買うのも、何かを聞くにも、交渉が必要な種類の場所がある。それを楽しめばいいだけの話だけれど、ようやく、何年かぶりにこの大好きな国に来たのだ。できるだけぼんやりと過ごしたいと思ったのだ。
 「どこからきたの?」
 「日本から。この車と同じ」
 ドライバーは歯を見せて笑ったあと、日本はいい国だって聞くよ、と言った。
 「うーん、いい国かも。でもこの国もとても美しい」
 と答えると、彼はバックミラー越しにちらっとわたしの顔を見た。
 「この国に来るのは何回目?」
 「まだ2回目です。それでも、本当に美しい国だと思う」
 いい国、と言わなかったのは、本当にそれは知らないからだ。
 窓の外は雨が降っている。時折、光るのは雷だろうか。18時過ぎ、日はもう落ちていて暗い。車は高速道路を降りて街中を走っている。ケンタッキー、ピザハット、知らないアパレルのお店、読めない文字。東京は本当に明るい街だと外に出るとよく分かる。薄暗い中、目をこらすと雑踏が見える。信号を守っているのかいないのか、道路にもたくさんの人。色鮮やかな洋服が薄暗い街に色をつけていく。車のすぐ脇を、かすめるように二人乗りのバイクが通り過ぎていく。並んでトゥクトゥクを待つ人たち。傘をさした親子。彫りの深い褐色の肌の美しい人たち。

 「行くホテル、とてもいいホテルだよ」
 「はじめて泊まるけれど、この国には、そのホテルに泊まりに来たんです。建築家のジェフリー・バワ。バワの建築が好きで、前回も、今回も、そのために来た」
 「なるほど」
 ドライバーはかすかに頷いたあともう一度繰り返した。とてもいいホテルだよ、と。

 雨のせいで、車は渋滞している。この、潤んだ空気を好きだと思う。動かない車にしびれを切らしたのか、ちょっと迂回します、といってドライバーがハンドルを右に大きくきった。踏切ともいえない道で線路を渡り、また周りがいっそう暗くなった。

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