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やさしい社会学のはなし


仕事でとある文書を作成し、完成した文書をこの件に関わる先生に確認してもらうべく、メールを送った。

そうしたら

手続きの流れや体裁はこのとおりで。1点、記入例のところ、ジェンダーバイアスの反映のようにも見られかねないです。教員名と学生名の性別を逆にしてください。

と返ってきた。

どういうことかというと

わたしは学生の提出書類を作成していて、それで、指導教員欄と氏名欄にそれぞれ名前を記入して提出してほしかったので、以下のように、記入例を作成したのだ。

<記入例>

指導教員 : ◯◯ 太郎
氏名 : ◯◯ 華子

ちょっとフェイクにしたけど


教員に男性名、学生に女性名。立場が上の方に男性を、下の方に女性を。

これが、ジェンダーバイアスの反映とみられるかもしれないだろうと。

なるほど。



こんな細かいことで、と思います。

出たよ、合理的配慮とか多様性とか、そのへんの繊細な話。だるいな〜 どこまで気をつければ良いのだよ。やさぐれそう。

正直、これを直すのも惜しいくらい、今、忙しい。記入例なんて、その名のとおり「例」であって、真面目に読む部分でもないだろう。修正するより優先すべき仕事は山ほどある。


だけど、

妙にこの指摘が心に残っています。自分の中に潜んでいたバイアスに気付かされ、恥ずかしくなりました。
(書類はもちろん修正しました)

そして、こうして文章に残すほど反省させられています。



大学の授業を思い返しました。

悪気のない質問も、ある人にとってはものすごく傷付くこと、というのは、よくあることです。例えばアンケート上で、性別を答える欄に男性、女性の選択肢しか無かったら、ものすごく傷付く人が一定数いる。そこに「その他」の選択肢があるだけで、救われる人が一定数いることでしょう。

社会調査は、統計とかデータ分析とか、そういう数字を扱う能力だけを身につけるだけではだめです。調査される側のことを気遣う、社会学的想像力が絶対に必要です。

それを養うためには、個人と社会を行ったり来たりしてください。身近で起きていることを社会と結びつけて考えたり、逆に、社会で起きていることを身近に置きかえる能力を、色んな面から育ててください。

社会調査(量的調査)の方法論を学ぶ授業で、先生は、こんなことを言っていたと思う。
※ この授業の担当教員はゼミの先生でもあったため、3年間、やたらこれを言われ続けた。

今回の件は、こういうことだよなあと。

性別を逆にしましょうと言ったその先生は、ご年配の女性。学歴も華々しく、研究者としてもそれ以外にも、非常に活躍されている方です。女は結婚して家庭に入ることが当たり前だという価値観が色濃かったであろうそんな時代に、研究者としてのキャリアを積まれた方。

きっと、ここまで来るのに、乗り越えてきたジェンダーによる障壁がたくさんあったのだと思う。

そんなことを想像させられたので、やっぱり反省せざるを得ない。そりゃあ、センシティブになるよね。

それにこういう「誰かの、小さな気づき」の積み重ねによって、女性に選挙権が生まれたりそういう歴史を辿ってきたわけですよね。

*

誰かに「社会学って何?」と聞かれた時「うーんよくわかんない、ま、なんでもできるところだよ!」と返している。

これも事実。

でも、社会を分析したり想像したりを行き来していたら、自分や他者や社会に気づきが増えたなあと思うし、優しくなれるようになったなあとも思うし

実学からは遠いけれど、とても役に立つ学問だなと、思います。それから自分が楽になる学問だなあとも思う。


今、データサイエンスが流行りで、なんでも数字で分析して「根拠(数字)を持った提言を!」みたいな風潮があるけれど、数字を出すことができても、結局のところ、そのデータが何を示すかを想像できる力がないと、何も提言できないのでは…課題を解決できないのでは…と思ったり。


noteの下書きがいよいよなくなってきました。いつまで毎日更新できるでしょうか。

先日、職場に大学時代のゼミの同期が来てくれたことで、ゼミのLINEが久しぶりに動きました。今日は通っていた大学のキャンパスに行きました。懐かしい。いいよ、社会学は。わたしのことなので、何を勉強しても「いいよ」というとは思いますが。

読んでくださりありがとうございます。

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