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209:古いモニターに入れたことで,ネットアートが身体を得たように感じられた

千房:今回展示に出したアニメーションも,本来はインタラクティヴに体験できる《KAO》のなかではオマケのような部分なんですが,CRTモニターで映したときに,いまでは見られないくらいのシンプルなモーフィングアニメから当時の空気感が十分伝わってくる感じがしました.後は古いモニターに入れたことで,ネットアートが身体を得たように感じられた.p. 172

「美術手帖2020年12月号」の「Interview with EXONEMO 技術を単語として、新しい詩を書いている 聞き手=四方幸子」からの引用.

「ネットアートが身体を得たように感じられた」が示すのは,液晶モニターが普及した状況で,あえて当時のCRTモニターを使うことで,ハードウェアに別の意味がでてはじめてソフトウェアにピッタリの物質的媒体を得て,作品に当時は気づくことがなかった別の見方が現れたということであろう.ネットアートの場合は,家庭やオフィスといったさまざまな場所にあるコンピュータとディスプレイによって作品が体験されるために,作品の見え方はもともと一定ではなかった.UN-DEAD-LINK展の《KAO》もどこのモニターでの展示も可能だったはずだが,あえて現時点のモニターの主流とは異なるCRTモニターを与えることで,作品発表当時へのノスタルジアだけでなく,作品発表当時には想定できなかったCRTモニターと液晶モニターとの違いからあらたな情報が生まれている.さらに,天井から釣られたヒトの顔の高さになる台の上にCRTモニターが載せられている状況から発せられる情報やソフトウェアによる「シンプルなモーフィングアニメ」から発せられる「当時の空気感」という情報も合流して,《KAO》は文字通りヒトの顔のようになるための身体としてのモニターを手に入れたと考えられる.


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