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192:死は作品が完全に破壊された時。

メディアアート作品に関して、よく不具合で動かなくなっている状態で「調整中」という紙が貼られてあたかも作品としての価値がない、つまり一時的に死んでるような扱いをみることがありますが、作家本人が「動いてなくても作品としては成立してますよ(死んでませんよ)」といえばそれは作品としてそのまま展示されるべきだと思います。絵画や彫刻は破壊されない限り死なないと思うので、メディアアートも破壊されない限り、動いてなくても死んではいないとプレゼンテーションすべきです。なにも動きの要素のみで作品の本質を語らなくても良いと思っています。美術なのだから動かなくても視覚的、造形的な美はなくなっていない(死んでない)はずで、死なせてはいけない。(調整中の貼り紙をしてはいけない。)死は作品が完全に破壊された時。完全に作家が作品の本質をどこにおいてるかによると思いますが。

YCAMで2018年に開催された「メディアアートの輪廻転生」展で実施された「作品の寿命や未来の姿についてアンケート」の回答から,やんツーさんの「人の死についての定義も様々ですが、もし「作品の死」を定義するとしたら、あなたはどのような状態が作品の死だといえると思いますか?」という問いへの回答からの引用.

- やんツーさんのこの主張も確かにあり
- 美術作品なのだから動いていなくても,そこのモノが存在すれば死んではいない
- ソフトウェアの作品はどうなるか
- 情報の二相理論における物質的側面と現象的側面
- 情報が特定の処理をされるときに物質的側面と現象的側面が現れる
- 情報が主だが,特定の回路の物質がなければ情報は現れないし,現象も起こらない❓
- 情報が主だがモノが先にある
- 情報以前のモノの回路

やんツーさんの回答を考えていたときに情報の二相理論のチャーマーズから思い出した,マーク・ソームズの『意識はどこかから生まれてくるのか』からの引用.

この論理に欠点を見出すことはできません.これは,単一の機能的組織(例えばマーク・ソームズ)が,内観的なもの introspectively と外観的なもの exterospectively との二つの異なる姿をとりうる,という私の議論とほぼ一致します.私がチャーマーズに同意できないのは,この議論を行うときに,すべての情報には主観的な側面があり,そしてそのために意識的であるという理論を展開する点だけです.私は(チャーマーズの言葉を借りて),「基礎理論に更なる制約が必要であり,どのような種類の情報が現象的側面を持つのかを示す」ことであると言いました.これこそが,私とチャーマーズの意見の相違点です.本書で私は,現象的側面を持つと思われる特別な種類の情報処理を特定し,この情報処理がなぜ,どのようにして起こるのかを説明してきました.チャーマーズがこの二相原理と構造的一貫性の原則の「制約付き」ヴァージョンを受け入れても受け入れなくても,彼と私は,機能的に同型の二つのシステムは同じ種類の経験を持たなくてはならない,という点で一致しています.言い換えれば,機能的に同型の二つのシステムの一方現象的な経験を持っているならば,もう一方もそれを持っていなければならない,ということになります.位置No. 5857/9309

- 情報は物質的側面とともに存在している
- 機能するかどうかは,情報が動くかどうか
- どのような種類の情報が現象的側面を持つのか
- 情報状態とともにある物質的側面
- 情報状態は物質的側面を持つことで情報処理を行うことができる
- 特定の情報処理のみが現象的側面を持つ

- 死は作品が完全に破壊されたとき
- 現象的側面があるからこそ,生物は動く
- サーモスタットも情報を処理するときに現象的側面が生まれている
- モノは現象的側面とともにあるから動く

メディアアートが機能しないというときは,情報の物質的側面はそこにあり続けるが,現象的側面が消失していると考えられる.このときの二相理論は,チャーマーズのバージョンではなく,ソームズの現象的側面を持つのは特別な種類の情報処理が起こる必要があるとする「制約付き」のバージョンになる.メディアアートはハードウェアとソフトウェアとを組み合わせて,情報の現象的側面をつくり出す特別な情報処理回路なのかもしれない.

さらに,これらを考えていて,過去に「メディアアートの輪廻転生」展について書いていた自分のnoteにたどり着いたので.そのリンク.


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