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204:脳みそが様々な刺激を意識下で受け取る,つまりそれを身体で受け取る温泉のような体験

千房 遺跡とか.あと気がついたことは,あの広い空間で作品同士がものすごく干渉していて,例えばあっちのフリッカーがショットガンキーボードの鉄板に反射していたり.火がメラメラ燃えているのは入り口からもずっと見えているし,だいたい視界に入ってくる.あの空間に入ったときに,頭脳と感覚が複雑な刺激を受けるということが成立したなと.脳みそが様々な刺激を意識下で受け取る,つまりそれを身体で受け取る温泉のような体験.p. 173

「美術手帖2020年12月号」の「Interview with EXONEMO 技術を単語として、新しい詩を書いている 聞き手=四方幸子」からの引用.

エキソニモはインターネットアートへの再接続を通して,ヒトとインタラクションという意識中心主義的なインターネットアート作品とをUnthoughtでつなげようとしている.インタラクションという意識的なつながり以外に起こっているけれど,意識できない領域のヒトと作品=外界とのつながりをあらためてリンクする.それは,インタラクション=インターフェイス(ディスプレイやマウスなど)によってデータがヒトと作品とのあいだでデータが循環するが,その際に意識のぼることがなかったけれど,意識を形成するために処理されていたデータの流れに接続することなのである.だからこそ,インタラクションではなく,物質を感じること,そして,物質同士の干渉から多くの刺激を受け取ることが,展示として重要になったのである.

この予測がつかない物質同士の複雑で多重な干渉は,インターネットが持っていた不完全さゆえのランダムさを作品として物質化したものと考えられる.千房は「アート表現にはランダムを“積極的に”使え」で,次のように初期作品について書いている.

《FragMentalStorm》,《DISCODER》,《HighBall》に共通して言えるのが,インターネットそのもののメディアとしての不安定さをランダム関数として利用しているということだ.《FragMentalStorm》は実際にランダム関数を大いに活用して結果をランダムに見せていたが,他の二つはよりネットワークのカオティックな状況を利用している.通常アート表現は,人間によって決定されたものと理解されるが,エキソニモの初期作品ではランダム性が表現を決定するので,その表現の主体がどこにあるのかは微妙な問題をはらんでいる.しかし,実はそこにこそ,「メディアアート」の可能性があるのではないかと考えていた.

エキソニモはUN-DEAD-LINK展で,初期ネットアートの作品のインタラクションをなくす選択をして,インターネットが失ってしまった不安定さをソフトウェアとハードウェアとの不安定な関係に起因する作品の生と死との確率的状態に置き換えて,表現したと言える.それは,エキソニモはインタラクションをカットして作品を「残骸」にしたのではなく,メディアアートの「死ぬことを見せることができる」点を利用して,インターネットアート作品の物質性を強調することによって,Unthoughtの領域で,ヒトとUN-DEAD-LINKさせて,あらたらしい作品の生をつくり出しのたのである.


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