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52ヘルツのクジラたち

苦しくて、苦しくて、苦しくて、
本当に苦しい時は、涙が出ないな、と感じた。

胸が擦り切れるような苦しみと、頭のてっぺんを殴られたような苦しみと、胸の奥から込み上げてくるような苦しみを、消化できないうちに物語が進んでいって、映画を観た後、駅までの道を夢遊病のように歩いた。
でも、海の見える家でキナコがアンさんに語りかけるシーンは涙が溢れた。
わずかでも希望が見出せるような瞬間が、心の奥に温かく沁みてくる作品だった。

なぜ人の苦しみが分かる人が先にいなくなってしまうのか。ここ数年のニュースを見ていて、何度かそんな悔しさに駆られていた。
でも、他人の苦しみが分かるのは、自分が先にその苦しみを知っている人間だ。
本を読んでいなかったので、アンさんがキナコを助けた時、ああアンさんも何か抜けられない苦しみを抱えている人なのだろうなと思った。

この映画を観ていて、愛と見せかけた自己中な言葉、愛があるのに思わず出てしまった言葉、本当に相手のためだけを思った愛のある言葉が明確に分かれて感じられたのが印象的だった。
キナコの母親は最後まで、キナコに対して愛のある言葉をかけなかったと感じた。
一方でアンさんの母親は、本当は子どものことを真に愛していたのだなと感じられただけ、救いだったかもしれない。アンさんにかけた言葉は、ナイフのように痛い、とても痛い言葉だったけれど。

杉咲花さんのインタビューで、「安全圏にたまたまいた」立場で「当事者たちの境遇を”消費”してしまっているかもしれないという恐れを抱いている」と書かれていた。作品に関わる覚悟が溢れた想いだと感じた。
私自身、アンさんを見ていて素直に感じたことは、生まれてからずっと見る、ずっと付き合っていく自分の体、見た目が、ずっと自分の本当の心を隠すもの(違うもの)だとしたら、日々、その違和感を幾度となく突きつけられて生きてきたのだろう、ということ。一番本当の自分を受け入れてほしい人達に、この望んでいない姿でいてほしいと言われたら、本当の自分を拒絶されたら、どんなに苦しいだろう、ということ。
アンさんの母は、アンさんのことを昔から優秀で手伝いもよくしてくれたと言っていたが、それは父がいない分も、ということもあったかもしれないけど、母への罪滅ぼしのようなつもりでもあったのでは、と感じた。
自分はいずれ、母の望む姿ではなくなるつもりだから。その時母を傷つけてしまうかもしれない、失望させてしまうかもしれないから、せめて日頃は母の助けになる子どもでいたかったのかも、と。母のことが嫌いで憎んで体を男にするのではなくて、自分は母を愛しているんだ、ということを伝える意味があったのかもしれない。
本当はどこか諦めてしまいたくて、それほどに苦しくて、でも自分だけは自分のことを信じたくて、心のままに生きられるということを実現して。でも大切な人には言えないからどこかタイムリミットのある幸せのようにも思えていたかもしれない。いや、大切な人達が皆受け入れてくれるなんて大きな幸せは望まないから、せめて男でいる幸せ(心と体が一致している人には当たり前に感じること)やキナコ達と過ごせる幸せは感じていたい、と思っていたのかもしれない。

自分を殺められるのは、死ぬより辛い感情を知っているからだと思う。
死ぬより辛いそれをもう一度、いや何度も味わうくらいなら、たった一瞬の苦しみなど、辛いけれど耐えられたのかもしれない。

苦しみから解放されたアンさんが映るシーンで青いお風呂場のカットがあったところ、アンさんが「52ヘルツのクジラ」のように生きていたところから、本当に52ヘルツのクジラのように海の中に沈んでいくようで。
ラストの愛も、海に飛び込もうとする=52ヘルツのクジラになる、という比喩もあるのかなと感じた。でも愛は、アンさんからの愛を受けたキナコによって救われて、そこでクジラが海から出てくる。52ヘルツのクジラになったアンさんが2人の苦しみに共鳴するとともに、2人の生きる選択を祝福するかのように。

そこ気にしなくても、というところだけどあえて言えば、キナコの恋人の婚約が破談になったのは、本当にアンさんのせいだったのか?と少し疑問に思った。

そしてキナコが自分を刺すシーン、自分だったらその刃を恋人に向けてしまうと感じたけれど、キナコは自分に向けた。悔しさだったのかもしれないけれど、何かが起こった時、感情を爆発させて相手にぶつけることはせず、ぐっと自分の中にしまい込んだり痛みを自分に与えてしまったりするところを見て胸が痛んだ。

52ヘルツのクジラのように、本当は苦しいと叫んでいる人が数えきれないほどいる、と感じている。
その叫び声が聞こえないのは、聞いている側の人も苦しさを抱えているから、ということが増えているとも感じている。
他の人の苦しみは見て見ぬふりでもしないとどうにもならないほど自分も苦しい、という人が現代、増えていると思う。
だから、この映画のような、そして原作の本のような、何か「作品」を見て立ち止まる瞬間があることが本当に大切だと思う。
誰かの痛みを、自分の都合のいいように享受してしまっていないか。
自分の本当の気持ちを、無視していないか。

杉咲花さんが大好きだから出会えた作品だったが、作品を観ている時間は、自分の本音とも向き合えるような、静かで大切な時間だった。

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