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正欲

「地球に留学しとるような感覚なんよね、ずっと」
私がはっとする台詞を、夏月はぽそっと呟いた。視聴者にとっては大事な台詞だけれど、夏月はその感覚をずっと持ち続けて葛藤し最適な言葉で言語化できるまで悩んだからこそ、何でもない言葉のように呟けたのだと感じた。
めでたいポジティブな空気感で描かれることの多いプロポーズのシーンや結婚生活は、「嬉」という雰囲気が限りなく削られていたことが印象的だった。本当に、理解者と住み始めた、という感じ。夏月のほうはでも、感じたことのない安心感や「この日常を続けたい」という幸せな感覚を掴み始めていたと思う。寺井が指輪以外にも彼女の既婚者感を感じたことにも納得した。服装と、絶対的な理解者がくれる安心感に包まれているという雰囲気を感じる。

寺井家の父と母の喧嘩のシーンは複雑だった。
父の言うように、世の中には「本当に理解できない人」もいる。それは事実だと思う。
悪いことを悪いこととも思わない、常識が全く通じない、そういう人はいると思う。

諸橋くんの、最初から全てを諦めている目が印象的だった。諸橋くんと八重子の会話がこの物語で伝えたいことの核心のうちのいくつかを突いていると感じた。

本の中では確か夏月が寺井に言いたいことを言って終わったような印象があったが、映画では「夏月側」の主張も、「普通の生活を送る寺井側」の悩みや葛藤も描かれていた。

この作品でもそうだし、「流浪の月」でも、お互いがお互いしかいないような関係性を観た。2人でいる時だけはお互いが生き生きとしていられて、この世界にはお互い以外の理解者は存在し得ないという関係。どんな人にとっても、そんな人に出会えることは、生きていく上で何よりの救いなのだと感じた。

登場人物のほとんどが、暗い海の底にいるような目をしていた。
多数派、マイノリティー、多様性、こういう言葉が広がってきたばかりの現在は、「じゃあみんなが明日を楽しみに生きていくためにはどうしたらいいんだろう?」という問いに対して、まだ答えを出すべき時ではないのだと思う。誰もが試行錯誤している。寺井家の子どもがYouTube配信を始めたが、それを手助けしていたあの母は、嬉しさと不安でいっぱいだっただろう。
自分らしく生きれば必ず幸せになれるのか?頑張りすぎない生き方を続けていいのか?お金持ちや高い役職の人になれば幸せなのか?何もかもが不確定な世の中で、軸足を定められないまま生きている人は大勢いると思う。定ったら定まったで、自分が決めた生き方に対しても常に不安がつきまとう。そういう辛い時を越えて、私たちが今もがいていることへの答えはあと数十年先に明らかになってくるのだと思う。

こんな自分で正解だ、と思うことができれば、せめて自分では自分を救える。
自己肯定感とも違う気がする。
自分で自分のある一面に対しては諦めて、ある一面は受け入れて、またある一面に対しては良かったと思って…そうやって自分の一つ一つを処理していくことが、大人になるってことなのかなと思った。映画とは関係なくなってしまうけれど。

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