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萌の立場にはいられないー『由宇子の天秤をみて』ー

2021年もうすぐ終わりそうですね。今年はたくさん映画をみて、充実した年でした。おもしろかった作品ランキングも鋭意、執筆中です。
今回は春本雄二郎監督の『由宇子の天秤』のレビューである。本作をなぜ取り上げるのかと言えば、おもしろかったことはもちろん、私の立場性について考えさせられたからである。それは「おわりに」で述べるとして、さっそくレビューに移る。なおこのレビューはfilmarksの私のレビューに加筆、修正したものである。では。

はじめに

話題作だったので鑑賞。
音楽を一切排しているにも関わらず、152分があっという間に過ぎるすごい作品でした。
他のレビュアーさんが言及しているように、由宇子を演じる瀧内公美さんや小畑萌役の河合優実さんなど俳優陣の演技が素晴らしい。演劇のように発声しない演技がリアリティを増長する。また萌の父である小畑哲也演じた梅田誠弘さんもよかった。低所得者の振る舞いを見事に身体化して演じていた。

主題の解釈

物語内容についていえば、ポスタービジュアルにもある通り、「正しさとは何なのか?」を主題にしているが、「正しさ」の前に「責任の引き受け方の」を補い解釈した。

主題をどのように描いたか、また問題点の孕み

結論から述べてしまえば、本作において「真」の正しさの回答は存在しないが、正しさは多面的に存在し、その解釈は鑑賞者に委ねられている。そして本作のほとんどの登場人物は、責任を正しく引き受けていない。
前者について、物語には回答が存在するべきとは思わないが、問題点を後述する。そして後者について、由宇子の立場の変化を追いながら、述べていく。

由宇子の立場の整理

由宇子の立場は、4つに分けることができる。
まず女子高校生の自死事件を取材する第3者(①とする)として。彼女は事件と関係がない。テレビ局のドキュメンタリー番組をつくる立場として存在しているだけである。
次に塾講師の父が、教え子の萌と性的関係を持ち、妊娠が発覚する出来事からの立場である。それは、出来事に巻き込まれた当事者の立場(②)。萌が病院に搬送される要因を作った加害者の立場(③)。そして父の加害を萌の父に明かし、殺されかける被害者の立場(④)である。
このように由宇子の立場は変化し、その立場によって正しさもまた変化していく。そして自死事件と由宇子の個人的な出来事が共鳴し、相互に影響を与えることも本作の見所である。では正しさはその都度何であり、行使されているのだろうか。

第3者としての由宇子(①)の検討

ここでの正しさは事件の真相を明るみにすることである。由宇子はそのため当事者に取材をして、メディア批判の声を掬いとる。しかしその声はテレビ局の上層部からカットの指示を受けることでかき消される。さらに由宇子は、加害教師の遺書が親類によって捏造された真実も明らかにする。しかし結局、ドキュメンタリー番組の放送は中止になり、世の中には明らかにされないのである。このように由宇子に責任の全てを負わせることはできないが、誰しもが正しさを行使していないのである。捏造の罪を告白した矢野志帆を除いて。

当事者としての由宇子(②)の検討

②について。ここでの由宇子の正しさは、父が教え子と性的行為に及んだことは明白なのだから、父を自首に導くことである。だが、由宇子は自死事件を追うことで当事者への誹謗中傷を目の当たりにしたため、そしてドキュメンタリー番組を放送させるために、父を思いとどまらせる。ここでも正しさは行使されない。

加害者としての由宇子(③)の検討

③について。由宇子は、被害者の萌を気にかけ優しく接する。時には萌の自宅へ赴き、手料理を振舞ったり、勉強を教えるほどだ。しかし萌が売春行為をしており、萌の孕んだ子が父との子ではない可能性が浮上する。そのため萌に誰の子であるか問い詰める。萌はその場から逃げ出すことを決心し、逃走中に自動車事故に巻き込まれる。萌は病院に運び込まれ、その時萌の父に由宇子は出会う。そこで由宇子は父の加害を打ち明ける。ここでの正しさは、萌を病院送りにさせた由宇子の加害を萌の父に自白することであるはずだ。だが打ち明けられたのは由宇子の加害ではなく、由宇子の父の加害である。だからここでも正しさは行使されない。

被害者としての由宇子(④)の検討

④について。萌の父は、萌の妊娠の事実に逆上し、由宇子の殺害を試みる。由宇子は首を絞められ、意識が遠のき、病院の駐車場に打ち捨てられる。だが由宇子は、一命をとりとめる。ここでの正しさはとりあえず萌の父の加害を告発することと言えるだろう。しかし由宇子が自分自身にカメラを向けるところで物語は終わるのである。

総論とその困難さ

以上、由宇子の4つの立場と正しさの行使を仔細に述べてみた。やはりどの立場からも正しさは行使されていないのである。このように正しさが行使されていない様を、鑑賞者の高みの立場から糾弾することは容易である。しかし登場人物は自らの立ち位置から最善の正しさを行使しているのかもしれない。そして本作では、正しくあることがいかに難しいかを現実の複雑さをリアリズムに描くことで示しているのである。もし自らが出来事に巻き込まれたら、正しさを行使できるのだろうか。私は首を縦に振ることができない。

相対主義的な正しさへの疑問と問題点

このように正しくあることの難しさを難しいままに映画として映すことは本当に素晴らしい。だけど、それでいいのかとも思う。正しさは人々の立場や価値観から多面的に存在していることは、本作が示している通りである。しかしその正しさを登場人物をフラットにしながら、半ば相対主義的に描き、鑑賞者に解釈させるのは問題だと思う。それは鑑賞者に解釈させることが問題と言っているわけではないし、その監督の意図、試みは素晴らしい。だが由宇子と萌の立場をフラットにさせ、正しさを描くことは問題だと思う。

萌と由宇子は対等ではない

萌は、父から虐待にあい、十分なケアもされない被害者である。そして現実をサバイブするために売春行為にも手を染める。しかしそれでも大学に行こうとし、必死に勉強している高校生なのである。それに対して由宇子はカメラを手に持つドキュメンタリー監督であり、自ら生計を立てている大人である。メディアは第4の権力と言われているのだから、由宇子は力を持った者なのである。このように由宇子と萌は、非対称的な力関係が存在している。この力関係を無化して、相対化させることは、正しさを行使せざるを得ない状況の改善を困難にさせると思うのである。つまり不当に力を行使する者の糾弾を妨げ、またそこに本来あるはずの正しさを相対主義的な価値へとずらすことになりかねない。

由宇子及び映画という営為への期待

由宇子には自死事件同様、萌のように現実をサバイブしなくてはいけない人々にカメラを向け、社会に広く知らしめてほしい。その時カメラに映る正しさは一面的かもしれない。だけど暫定的に正しさを生起し、人々の目に触れさせること。そして人々が正しさを吟味したうえで、刷新させること。それが大切だと私は思うのである。それは映画の営みにおいてもそうである。これは私の価値観である。だけどそれを正しさにしたいのである。

期待への留意点

最後に、由宇子という女性に正しさを仮託させる物語の構造にも注意をしたい。本作で登場する男たちは、テレビ局の上層部や由宇子の父を始め、正しさに目を背けている人たちである。そんな男たちが力をもつ社会構造への変革を目指さず、由宇子に正しさを押し付けるのは、不正であると思う。自己批判に向かわせる物語もまた紡がなくてはいけないと私は思うのである。

蛇足1

河合優実さんの演技が本当に素晴らしい。特に髪を撫でられた時に避けようとする仕草。それによって萌が父に暴力を振るわれていることが解釈できる。

蛇足2

由宇子と矢野志帆とその娘がオムライスを食べたり、トランプをするシーンが素晴らしい。子どもが生き生きして、リアリズムな画である。この時、子どもに演技指導はしておらず、ずっとカメラを回していたらしい。だからこそ、自然の表情が撮れている。本当に素晴らしいシーンだった。

おわりに

以上、僭越ながらレビューを行った。相対主義的な正しさには問題だと思いながら、十分批評に耐え得る素晴らしい作品であることは言うまでもない。
春本雄二郎監督の次回作に期待しつつ、このような作品がもっと社会現象として立ち現れてほしい。
またここからは私の立場性についてである。
2021年の私は、萌がサバイブせざるを得ない物語をスクリーン越しに鑑賞者の立場から眺めているだけだった。それは痛みを伴わない安全地帯からの傍観である。
私は萌が目指した大学に当然のように進学し、当然のように卒業し、当然のように働いている。映画もたくさんみれて、充実している。しかしお金はそれほどないから苦しいとか言ってしまっている。だけど本作を観て思う。私は萌と対等ではない。しかも本作の男と同様に正しさの周縁に存在する傍観者だ。
もう傍観者でいたくない。第3者ではいられない。生活苦を萌と同様に語ることはできない。
だから「カメラを手に持つこと」。暫定的な正しさを生起する立場になりたい。私は萌の立場にはいられないのである。

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