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賭けること、連れて行くことーエリック・ロメール〈六つの教訓話〉シリーズを観てー

はじめに

やっと『モード家の一夜』のレビューを書くことができたので、〈六つの教訓話〉シリーズを一つにまとめてテキストにしようと思う。
上記の作品を除いて、〈六つの教訓話〉シリーズを私は夏ごろにみた。はじめて観た時に思ったことは、ジェンダーの観点からいえばアウトな表現が散見されるし、登場する男は気持ち悪いである。そして〈喜劇と格言劇〉シリーズを観た後は、そのネガティブな印象はロメールの若さゆえの至らなさなんだと勝手ながら理解した。だから正直あまり一つにまとめる気もなかったのである。
しかし『モード家の一夜』を観てから、そして村上春樹が原作であり、濱口竜介監督が見事に翻案した『ドライブ・マイ・カー』を観て評価が一変した。
なぜ評価が一変したのかは後述するとして、とにかく各々の作品のレビューに移る。それでは。

モンソーのパン屋の女の子

〈六つの教訓話〉第1話。

「男という生き物は恋する女性からは簡単に振り向かれない。だがそうこうしている間、別の女性に恋される。男はその女を遊びで誘ってよい。しかし恋する女性に偶然出くわしたならその遊びをなかったことにし、食事に誘え。」

そんな教訓を得ました。男のどうしようもなさを〈教訓〉として皮肉ってますね。

シュザンヌの生き方

〈六つの教訓話〉第2話。

「男は女を誑かし、遊び、貶す。女はそれを受け入れている、だからいいのだ。だけど女は受け入れる振りをして、したたかに意中の男の横で生きるのである。」

そんな教訓を得ました。ここでも男のどうしようもなさを批判してますね。

主人公のベルトランは本に隠してあったお金を盗んだ犯人を友人のギョームではなく、シュザンヌだと半ば断定的に決めつけている。それってシュザンヌを下にみているってことだよね。観客の視点からみれば明らかにギョームが犯人なのに。

最後のプールサイドのシーン。それでも好き。シュザンヌが水着でフランクに横たわる姿とベルトランが妬ましげに見つめる姿が最高である。

モード家の一夜

〈六つの教訓話〉第3話。

「まず賭けろ。君はもう賭場に立っているのだから。」

そんな教訓を得ました。〈六つの教訓話〉シリーズの中で一番難解だが、教訓も得られたし自分に刺さった。紛れもなく名作です。

主人公の独身男性ジャン=ルイ(『CINEMA VALERIA』の表記に従う)はカトリック教徒。彼は教会で偶然の出会いだが、理想的な金髪の娘フランソワーズを将来の妻と確信する。その後ルイは、旧友のヴィダルと再会し、演奏会に誘われる。演奏会の晩、彼らはヴィダルの友人で無宗教の女性モードの家へ訪れる。外は雪が積もる。モードはルイに泊まるように促し、ヴィダルを帰らせる。そしてルイとモードは同じ一室で寝ることになる。理想の相手であるフランソワーズかボヘミアンなモードのどちらを選択するのか。その賭けでどちらが善い生き方ができるのか。ルイは賭場に立たされている。

この一見するとありがちな恋愛話が、パスカルの「賭」の断章を引用し、展開されるのがお洒落だし、かなり好き。ただしキリスト教徒ではないので、難解ではあるが。

この「賭」の断章では、神が存在することに賭けることの合理性について確率論を用いて説明している。ざっくり要約すれば、「神が存在するか、しないのか」は理性では決定できないし、賭けることもできない。しかも賭けないこともできない。生きている以上、すでに賭場に立たされているのだから。ではどちらに賭けるのか。もし「神が存在する」に賭けて負けても何も失うものはない。だから迷うことなく「神が存在する」に賭けるべきである。賭けることを信じられないとき、「神の証拠を増すのではなく、きみの情欲を減らすことによって、信じるように努めたまえ」(p.55)。といったものである。

ルイはこのパスカルの「賭」について、否定的である。しかしそれは、自らが情欲に突き動かされているため、信仰の忠実さの欠如を指摘されていると考えているためではないだろうか。
実際、モード家で一夜を過ごすときの、悶えている様は滑稽。モードにベッドに誘われながら、頑なにソファで寝ようとする。モードは裸なのに!だが夜明け頃、ベッドに入り、キスを迫る。しかしモードに突き放され、曖昧なのは嫌いなのと言われる始末。
情欲に突き動かされ、賭けにも出れず、失敗する様子は笑えるとともに私の教訓でもある。私もまさしくルイだし、賭けに出ないとダメなんだよな。ずっと賭場の問題性ーそれは男性性とそれを構築する社会構造-にずっと目を向けていたのだが、賭場に立たされている以上、賭けないといけない。

本作に戻そう。ルイはその後、モードと雪山で会うし、フランソワーズとも親しい間柄になる。どちらともいい感じになるのは、??という感じではあるが、結局ルイは理想の相手フランソワーズと結婚する。物語では、数年後も描いており、ルイはフランソワーズと子どもを連れて海辺にいく。そのときモードとも再会する。そしてフランソワーズが実は、モードの夫と不倫をしていたことが明かされる。この瞬間を、映像を止めてモノローグで間接的に描くのがとてもお洒落でした。

教会のシーンは、場所の真正性に即した素晴らしい画であったし、物語も秀逸。
教訓も得られたので、自分も賭けに出ようと思います。

蛇足
神の存在に賭けても何も失わないは、本当にそうなのかと思った。しかし訳注の「もしも神の存在に賭けて、それが当たっていれば、永遠の幸福を得られる。もし外れたとすれば、間違いは犯すが、何も失わない。なぜなら、この場合には、死後に待ち受けているのは虚無であるが、虚無が誤りに対して何らかの償いあるいは罰を科すことはありえないのだから」(p.59)である程度納得した。

参考文献
ブレーズ・パスカル著塩川徹也訳(2015)『パンセ(中)』岩波文庫

コレクションする女

〈六つの教訓話〉第4話。

「教訓なんて見出さなくていいのよ。女性の美しさをみよ。」

そんな教訓を得ました。

アイデは毎晩、別の男を連れ込み遊ぶ。キャロルは最初疎ましく思いながらもだんだんと惹かれていく。二人の距離が近くなったと思いきやアイデはキャロルの友人ダニエルと恋人関係のようになる。三角関係。しかしその関係も破綻し、またアイデは男をコレクションしていくのである。
こう思い返してみても物語から教訓は引き出せない。

ただプロローグのアイデの水着姿でひきつけられたし、映像美がすごい。海辺もきれいだし。
またキャロルがアイデのズボンのチャックを下すシーン。あああ。

エリック・ロメールを特集した『シネマ・ヴァレリア』のこの作品の紹介文をよむと、この作品は低予算でつくらないといけなかったらしい。そのため非職業俳優を起用したり全編ロケーション撮影で行うことになった。
だが低予算という制限ゆえに即興的な演技の導入やワンテイク撮影、自然光の大々的な取入れなどが行われ、それが後のロメール作品の特性である視覚的スタイルの確立に寄与したらしい。なるほど。

クレールの膝

〈六つの教訓話〉第5話。

「欲望に跪け。」

そんな教訓を得ました。

〈六つの教訓話〉シリーズで一番男が気持ち悪いし、情けないと思う。

主人公は結婚間近のジェローム。バカンスの最中に偶然、旧友の女性作家オーロラと再開する。親しく身体にべたべた触るジェローム。そんな彼にオーロラは末娘のラウラを紹介する。ラウラは彼に恋をしたらしい。それをオーロラから聞いたジェロームはラウラを山登りに誘い、強引にキスをする〈実験〉を行う。だがジェローム、セックスすることをかわされる。そんな折、従姉のクレールにも出会う。クレールが梯子に登って果物を収穫している時、膝をみる。欲望に駆られる。心惹かれる。
最後、ジェロームはクレールをデートに誘う。途中、雨に降られ雨宿りをする。その際、クレールの彼氏が浮気をしていることを告げ、最低な男であるから別れるようにいう。泣き出すクレール。ジェロームは膝をさすって欲求を満たす。終わり。

ジェロームがオーロラにべたべた触るのがまずないなと思ってしまった。距離が近すぎる。あと結婚間近のおっさんが、未成年の女の子に〈実験〉といってキスしたりするのも無理だった。そしてクレールと彼氏の事情を一切考慮せず、一方的に最低な男だと言い、泣かせ、それを励ます振りして自分の欲望の対象である膝に触れるのも無理だった。一番無理。

あと情けないなと思ったのは、バレーボールするシーン。ラウラやクレールが遊んでいるから、まざりたいと思いつつ、大人な振りして冷静に振舞っている。けれどまざりたいという欲求があふれ出てしまってもぞもぞしているのが情けない。あとそのシーンで偶然を装ってクレールの膝に触るの笑ってしまった。

クレールは、ジェロームに彼氏を散々罵倒されるが、ラストシーンでそれでも一緒にいることが示される。クレールはちゃんと生きているのである。

物語はないなと思いつつ、男の気持ち悪さを巧みに描くエリック・ロメールすごいと思った。
あとアヌシー湖などの自然が美しく撮られている。撮影監督のネストール・アルメンドロスすごい。

蛇足
1カ月ぐらいバカンスできる人になりたいと思った。

愛の昼下がり

〈六つの教訓話〉第6話。

「欲望することと愛することは違うのよ。」

そんな教訓を得ました。〈六つの教訓話〉シリーズの中で一番好き。

主人公は既婚者のフレデリック。彼は妻のエレーヌや生まれたばかりの女児と郊外で幸せな結婚生活を送っている。しかしどこか満ち足りない。
そんな時、旧知のクロエと再会する。彼女は自由奔放で押しの強い女性である。そんな彼女にフレデリックは何度も会ううちに徐々に惹かれていく。
終盤、クロエは自室にフレデリックを呼ぶ。彼を待っていたのはシャワー中のクロエだった。彼女はフレデリックに身体を拭くよう言う。その流れで裸になりベッドに誘惑するクロエ。
その瞬間、フレデリックは部屋を去り、妻のエリーヌに会いに家へと帰る。そこで本当に愛しているのはエリーヌだと気付く。愛し合うフレデリックとエリーヌ。めでたしめでたしである。

フレデリックは序盤、妻との愛に満ちた生活が当たり前になったため、満ち足りなくなってしまっている。そして彼のもともとの性格にも由来していると思うが、欲望することにのめり込む。その象徴が街ですれ違う女性を常に目で追っていたという回想や「お守り」を身に着けることによって女性を意のままにできる白昼夢である。
クロエに対してもそうだ。ボヘミアンな彼女を自分のものにしようと欲望する。しかしこれが愛ではないことに気づく。なぜなら欲望するとは、他者を所有することに他ならず、愛することとは所有を手放し、他者を承認することであるからである。そして欲望の際限のなさと愛の尊さに気づいたからこそ、フレデリックはクロエの最後の誘惑から逃れ、エリーヌのもとに行くのである。

個人的には、この作品が訴えかけようとしていることに激しく同意するので好きである。しかし白昼夢のシーンなどは男の気持ち悪さがもろに出ており、クロエの関係(それは不倫関係に近い)を通して妻の愛に気づくのは最低という感想になるのも分かる。
確かに夫婦の二者間だけでなくクロエなどの第三者が存在しないと愛に気づけない物語はどうにかならないのかと思っている。

しかし傑作と言って過言ではないと思う。この作品みれてよかった。これからも愛とは何か考えていきたい。

蛇足1
フレデリックは電車通勤の最中読書をしている。しかも行き帰りで違う本を。自分も最近同じことをしている。

蛇足2
白昼夢で登場する女性は、〈六つの教訓話〉で登場してきた女性たちである。キャラクターも引き継がれていて面白い。しかし自分は最初にこの作品から観てしまったので、後の解説で知る。再鑑賞したい。

蛇足3
クロエが働くことになるアパレルショップで売っている服がきれい。チェック柄のワンピースかなり好きだ。

蛇足4
ポスタービジュアルにもなっているフレデリックがクロエの体をタオルで拭くシーン。欲望することの手前で踏みとどまる様を上手く描いている。身体のラインを確認する行為にもなっておりすごい官能的だな。

蛇足5
クロエはメンヘラではと思ったが、メンヘラって言葉なんか幼稚だなとずっと思っていた。しかしボヘミアンな女性と言えばよいのだと気付く。

おわりに

こうやってまとめてみると、やはり私は〈六つの教訓話〉シリーズから何一つ誇り高い教訓は得ていないことに気がつく。だって登場する多くの男たちはどうしようもなく、気持ち悪いからだ。だけど、『ドライブ・マイ・カー』ーそれは男の危うさを描いているーを観た私は思う。その気持ち悪さを批判的に捉えながらも、男として世界へ賭けに出ていくこと、他者を軽やかに別世界に連れて行くことも大切なのではないかと。
「男として」という本質主義的な発言はかなり危険である。でも、それでもそう言わなくてはいけないし、それを教訓としたい自分がいるのだ。


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