なまぬるい空調に抱かれる休日のオフィスからようやく脱出すると、17時でも夏の陽はまだまだ眩しくもえていて、家路につくのをなんだかためらわせてくれる。タンクトップの袖ぐりから呑気につきだす裸の肩をウエハースのように甘く香ばしい風がすべって、その気さくさに乗せられるように地下鉄のあなぐらへ潜った。

駄菓子屋の棚の前にいるような気持ちで、切符売り場の色あざやかな路線図を見上げる。選択肢は多ければ多いほどワクワクするが、目移りするのと同じくらい、わたしは決断という行為が好きなのかも。友達と行く居酒屋も、恋人の誕生日プレゼントも、対面した相手の顔を思い浮かべるとその責任までひっくるめて愛おしい（勿論食べログを恨んだことも数しれず）。心地よい夏の夕方に、わたしに何を贈ろうか？水天宮前？三田？茅場町？うーんとやや悩んだ結果、とりあえず半蔵門線の改札を目指す。

どうやらわたしの、というか人間の身体は細かいつぶつぶでできているらしい。
二重スリット実験という量子力学の実験があって、いや勿論ド文系えっち近代文学ゼミ出身のわたしには詳しいことは全然全くわからないんすけど、要約すると、量子ことそのつぶつぶを誰かがじーっと観測するかしないかで、つぶつぶは「振る舞い」を変えるらしい。じっと眺めている間はおにぎりだけど、目をそらしたらおかゆになる、みたいな。え、授業参観？全然人格ある？私はこの話を聞いたときえらく驚いたけど、反面なんとなく納得もした。誰かの目に触れる間だけようやくｶﾜｲｲ（ｶﾜｲｲ）お姉さんの形になっているにすぎない、夜な夜な一人でベッドに沈潜してゆるやかに液体になっている自分なんてつぶつぶの模範例じゃん。それだってかろうじて脳みそがわたしをわたしだと認識してくれているから液体でいられるわけで、もし自我すら消えたらわたしの身体もといつぶつぶたちははちみつのようにベッドにとろりと染み込んで、そのまま質量に任せて床にたらりと落ちて、フローリングにひろがって、溶け込んで、この世からいなくなるかもしれない。無断欠勤を訝しんだ上司がこの部屋に踏み込んで初めて、そのへんに転がるわたしの冷たい身体が発現するのかも。シュレ猫じゃん。毒ガス吸って生きてるわけ無いやん普通に、動物虐待反対。

大手町で千代田線に乗り換えて乃木坂A3出口を出る。緑とビル群の組み合わせが好きだ。東京ミッドタウンで今日の晩ご飯とスイカジュースを調達して、檜町公園を散歩する。今を盛りと胸を反らす木立の間を、ブロンドの髪をした子どもたちが駆け回っている。真昼の正々堂々さが少し和らいだ夕方の青空の端が、純露のような気高い黄金に透き通って輝き出して、ザリッツ・カールトン東京の大きな窓々にはねた光がわたしに落ちてくる。薄ら甘いジュースで口腔内を冷やしながら、まだ今年スイカ食べてないなあと思い出した。夏なのになあ。

そのまま国立新美術館そばの乃木坂駅へ向かうものの、せっかく風が涼しくなってきたからもう少し歩きたい気分になって、左手に青山霊園をみながら環状3号線をなぞる。空はまだ明るい。蝉の声がイヤホンを貫通してくるので、どうせなら聞かせてみろとイヤホンを外した。つぶつぶが観測した通りになるなら、すれ違う人も全部、起こる出来事も全部、わたしが観測したとおりなのかなあ。そう考えるとちょっと生きていけなくなりそうなのでやめておこう。だって会社で頭のおかしいおじさんにちょくちょく突っかかられるのもおれのせいなわけ？いやそんなの絶対許さないからな。
道中で退去済みのがらんとしたお店を見かけて、あ、と思い出す。一度来たことがあるパン屋さんだ。そのころは確かマリトッツォとかいうパンに生クリームを挟む非常に短絡的かつ暴力的しかし美味しいデザートが流行っていて、その時もたまたま通りかかって、食べたわ～～～～・・・・・・とじーんとしてしまった。今の今まで忘れていたくせに、浸る資格なんてないだろうけど。次のテナントはまだ決まっていないようで、打ちっぱなしのコンクリートはさめざめと静かな空間を抱いている。わたしがその前から立ち去れば、つぶつぶになって全部溶けて消えちゃうのに健気なものよ。気付けば少しずつ滲み出している夜の暗さにおどろいて、蚊に刺される前に帰ろうと思い直す。

相手のノーまで受け入れることが愛することだと気付ける日が来るなんて、梅ミンツを惜しみなくざらざらと口に流し込んで頬張れることこそ大人だと思っていた頃には想像もしていなかったな。ああでも手離せないよ。もう少し人の形をしていたいと思ってしまう。こうやって夏の日を贈っても、笑顔でいても、端から溶けていく自分の手では、このつぶつぶ掬えないんだもん。弱えつぶだよほんと。

青山一丁目に差し掛かり、ふと歩道橋にかかった「8月12日 神宮花火大会」の文字に心が壊されたので帰りました。花火したいな～。