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ニューヨークフェロー月報<6> ニューヨークの演技について

12月は、「ほな行くわ」と、ニューヨークにやってきた横さん(横居克典)a.k.a 大和郡山市でいちばん感じのいいおっさん と話し込んだり、コロンビアで窃盗にあい、すべての財産をすべて失った同じグランティであるロッキーのために手続きをしたり、Lamama の芸術監督のミアと話をしたり、読書会で岩城京子さんの論文を読んだり、風邪を引いて寝込んだりしていました。

そんな中、わたしたちのグランティとしての期間は年末まで。離れ離れになるのを惜しむように、連日、他のグランティと遊んだり、バドミントンをしたり、台湾のピアニスト・シーヤンの部屋をたまり場にして夜中まで飲んだり(シーヤンの隣は僕の部屋で、その隣はマチ(香港・ドキュメンタリー映画監督)なので、多少騒いでも大丈夫)していました。

今月の月報は、そんな年末に見た、あるとても短いパフォーマンス作品の話。シーヤンのパートナーであるChetとふたりで、半年間見た中で、これがベストのパフォーマンスだよね、と盛り上がっていました。

インドネシア人のレイリおばちゃんに誘われて、彼女の友達であるというニコル・グッドウィンという人のパフォーマンスを見に行った。会場は、8th floorという18th streetあたりにある小さなギャラリー。

送られてきたリンクもよく読まずに参加したのは、レイリおばちゃんのテイストが私のそれとかなり近いということもあるが、まあ、友達付き合いの一環という感じで、ほとんど何も期待していなかった。ギャラリーの入るビルの入り口に着くと、そもそも扉の開け方が分からなくて右往左往していたら、スタッフと思しき人が入っていったので、一緒に紛れ込んだ。

パフォーマンスの30分前、客は誰もいない。

仕方がないので、暇つぶしにギャラリーで行われていた展覧会を見ていた。それは先住民アーティストたちの作品を集めた企画で、いくつかの作品は少し理解できるものもあったけど、大部分はいまいちピンとこない。というか、なぜこの展覧会の関連イベントに黒人ではあるが、おそらく先住民のアイデンティティではないニコルが出るのだろうか? そのうち、ぽつぽつと観客らしき人々が集まってきて、レイリおばちゃんの姿も見えた。

円形にいくつかの椅子が並べられ、さらにその円を見るように椅子が並べられる。どうやら、この円形の中で何かが行われることがわかる。そして、このときは見落としていたけれども、ほとんどの椅子の床面には「この椅子に座った人にはパフォーマーが触れることがあります」という注意書きが貼られている。受付では、説明書きと一緒に諸注意みたいなものが配られている。繰り返すようだけど、低い期待値なので、面倒くさくなってほとんど一顧だにしなかった。

パフォーマンスが始まる。
 
控室と思しきところからドアを開け、ニコルが登場する。彼女の身体はとんでもなく大きい。びっくり人間大集合のようなテレビ番組で、太りすぎて動けなくなってしまった人が映し出されることがあるけど、150kgはゆうに超えるであろう彼女の身体は、はるか昔に見たそんなテレビ番組を思い起こさせるような大きさであり、「異常」であるということが一目でわかる。その巨体が、普通に歩くのではなく、這いずりながら登場する。まるでトドのように這いつくばっていくその身体は、ゆっくりと椅子で作られた円形の空間へと入っていった。そうして、椅子に座る人ひとりひとりに向かって、椅子に座るその「正常」な身体をよじ登りながら、その人にしか聞こえないくらいの声量でこう懇願する。

「助けて」

このとき、受付で配られたインストラクションがその力を発揮する。そこには、「アーティストとか変わってはならない。アーティストは人間ではない」「アーティストの言葉に耳を傾けてはいけない」「アーティストは嘘つきだ」「すべてを無視せよ」と書かれている。観客は、ニコルの声に耳を傾けることは許されず、ただ身体を固くして、何も聞いていないふりをすることしかできない。ここにあるどう見ても異常な身体は、「人間ではない」のであり、その「言葉に耳を傾けてはいけない」。だから、わたしたちは、それを無視し、聞いていないふりをする。


実際に助けを求められると、とてつもなく居心地が悪い。身体をよじ登られ、ほとんど胸ぐらを掴まれそうになりながら、それでも目を合わせずにいると、彼女は別の観客の方へと移動する。私の身体には、彼女の体温の温かさが残る。

そうして、観客から観客へと移動しながら、無視され続ける彼女。あるときは観客の座る椅子を回したり、あるときは叫んだり、しかし観客たちは、視線を送ることはあれど、何も手助けをしない。でも、そうして、彼女の巨体は、元にいたドアへと戻っていく。それは、わずか20分程度のパフォーマンスであった。

心が動かされるという意味でもとてもよかったのだが、このパフォーマンスについて書きたいと思ったのは、それが明らかに「演技」を巡るものだからだ。はじめに配布されるテキストは、観客に「無視をせよ」という演技を求め、観客はそれを遂行する。そうして無視をして、居心地の悪さを覚えていたアクターとしての観客は、この「演技」を、以前、どこかで行ったことがあることに気づく。わたしたちは、ほぼ毎日、このニューヨークで多くのホームレスや障害者などを見ないふりをするという「演技」をしながら、生活している。

ニューヨークについた当初は目についていたにも関わらず、半年はおろか、わずか数日でそのような視線を無視する演技には慣れてしまい、いまや、演技をしていることにすら気が付かなくなっている。もちろん、ニューヨークでの生活に限った話ではないだろう。あらゆる救いを求める声を無視し、あらゆる目線を遮断しながら、わたしたちの日常生活は営まれている。わたしたちの日常は、とてつもなく暴力的な遮断の演技とともにある。それを突きつけるようなニコルのパフォーマンスは、ただただショッキングなものであった。

これまで、ニコルの身体について、あえて「異常」であるということを強調して書いているけれども、それは、このパフォーマンスが、「異常」とされる側からの世界のあり方を描いているから、だけではない。そもそも、彼女は、アメリカ軍の兵士としてイラク戦争に参加しており、戦地では相手方の兵士を殺害した経験もあるという。そして退役後、彼女はPTSDに苛まれ、摂食障害を患う。そうして、彼女の体型はどんどんと「異常」へと変化していく。その身体の背後には、世界を「正常」にしようとするアメリカの矛盾があった。その体型からか、彼女は膝に痛みを抱え、杖をつきながら毎日を暮らしている。

かつてパノープリ・パフォーマンス・ラボ( http://www.panoplylab.org/about  現在は閉鎖中)を主宰していて、ニコルにパフォーマンスをつくるきっかけを与えたエスタ・ネフは、先日、現在のあまりにもひどい状況に対して(それは例えば、ガザへの侵攻や、それをめぐるアメリカ政府の対応、あるいは、BLMの端緒となるような黒人差別などを意味する)、パフォーマンスは有効であると言い切っていた。彼女はとてつもなく知的な人なので、その彼女が、まるで信仰のようにパフォーマンスアートへの信頼を口にすることに、ひどく驚いた思い出がある。でも、ニコルのパフォーマンスを見たら、確かにそう思わざるを得ない。別の演技を使うことによって、観客が普段無意識に行っている演技を照射する。アクティビズムは、問題を告発することで社会を変えることができる。パフォーマンスアートは、わたしたちの演技に働きかけることによって、世界を変えることができる。

そうやって不断に演技が検討され直していくこと。それは、民主主義という枠組みの中で演技を行うわたしたちにとって、不可欠な営みなのではないかと考える。

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