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ニューヨークフェロー月報<3>コップの水をこぼさない演技

早いもので、はじめてアメリカの土を踏んでから3ヶ月。わたしの滞在プログラムとしては折り返し地点を超えました。この3ヶ月、ニューヨークという未知の土地でバチバチに真新しい出来事に遭遇しながら、成長しているのか停滞しているのか、進んでいるのか戻っているのか、動いていないのかもわからず、それでも日記だけは英語で書き続ける日々でした。

秋の涼しげで乾いた気配がハドソン渓谷から流れ込んでくるニューヨークの9月。何人かの友人に勧められたディア・ビーコンはとても魅力的な空間だったし、

ティエリーの公演に参加したのも9月でした。

スリープノーモアや、ヒアライズラブといった大型のプロダクションを見たりしました。

同じプログラムに参加している映像作家MA Chi Hangによる映画『Ballad on the Shore (岸上漁歌)』のコミュニティスクリーニングに行ったり。

この街に暮らしながら、いちばん考えているのは「演技」についてかもしれません。ここで言う演技とは、決して、舞台上で俳優が行う演技だけにとどまらず、普段、誰もが行っている/行ってしまっているようなそれのこと。社会の中で機能している演技のことです。その演技を仔細に見ていくと(演出家の仕事は、誰よりも仔細に演技を見ることです)、ニューヨークと東京という街を取り巻く前提に、とても大きな違いがあるように思えてなりません。

今月の月報は、そんな演技についてのおはなしです。

小学校の低学年だったか、「朝の会」というホームルームではひとりひとりの名前を呼んで出席が取られていました。そのとき、生徒たちは、呼ばれた名前に返事をするだけでなく「元気です」と、健康状態を付け加えなければならなかった。しかし「元気です」という言葉がそぐわない場合、けど「風邪です」と返事をして心配される程ではない場合、子どもたちは「風邪気味です」という返事を選んでいました(当時、おそらく「ぎみ」という言葉の持つニュアンスなんて誰も知らなかったのに)。

ニューヨークにおいて、How are you? と聞かれて、goodとかgreatとかOKとか答えざるを得ない状況は、どこか、そんな古い記憶を呼び起こします。はぎわらくん、はい元気です。はせがわくん、はい元気です。でも、ここでは「風邪気味です」に相当する言葉がありません(知らないだけかもしれません)。Yuta, How are you?/I'm fine.You?/Good!

ただ、業務として健康状態を把握しなければならない小学校の教師たちとは異なり、声掛けの背後に相手に対する興味や関心はさほど感じられません。ぴちちと鳴き交わす小鳥のように、How are you?/good. you?/ good というやり取りだけがびゅんびゅんと飛び交っては消えていく。それはつまり「演技をする準備はできているか?」という確認のように思えてきます。

この街の人々は、概して機嫌がいい。目が合えば微笑むし、小さなトラブルにも共感を示してくれます(チェーン店において、少なくない店員の愛想がないのは、彼らにとって消費者は人ではないからでしょう)。そんな上機嫌な人たちが行き交うポジティブなニューヨークという街。裏を返せば、ここでは上機嫌でなければならないのかもしれません。この街を歩く以上、上機嫌であるという役を演じなければならないのかもしれません。その前提を共有した上で、関係が構築されたりされなかったりします。

もしかしたら、それはローコンテクストな社会の構成や、そもそもアメリカという国の成立過程、あるいはこの街の犯罪率の高さなどからも説明できるような気がするけれども、私はそこまでニューヨークの社会に知悉していないから余計な発言は控えます。ただ、演劇の演出家として、この街が高度な演技の集積によって成り立っているということだけはわかる。

私がかねてからテーマとしている公共、あるいは、今回のリサーチテーマとしている民主主義もまた、ある演技を求めるものだと考えています。公共空間における振る舞いは、素朴な意味での「あなた自身」であることを許しません。あなたは、「市民」の一人であり、この社会を支える一人である。あなたは1票の投票券を持ち、あなたとして主権を行使する。それぞれ異なった世界を生きているわたしの一票とあなたの一票が同じ価値であるのは少しおかしい。わたしの主権があなたの主権とは、ほんとうは同じ重みではないかもしれません。

でも、そういうことにする。

「そういうこと」という物語が、「公共」や「民主主義」という名前で呼ばれている。「そういうこと」というフィクションによって、わたしたちの社会は回っている。

でも、そんなフィクションはときにあなたを抑圧する。あなたの中には、I’m fiineと言えないあなたがいるのに、このフィクションはそんなあなたには付き合わない。それは、家の中に置いてきてほしいと要請します。公共空間とは、あなたの限られた部分だけを持ち込む場所なのです。

わたしは、そのような公共を肯定しようとは思いません。そうではなく、このフィクションを変えたいと思う。つまり、家の中に置き去りにされるあなたの部分が肯定されるような空間をつくりたい。わたしが近年考えているのは、そのような公共というフィクションの作り直しです。

別の演技の話。

意図したわけではないけれども、リンカーンセンターで清原惟の『すべての夜を思い出す』と、Gagosianで石田徹也の展覧会を続けて見たのは、日本における演技というものを考える上で、とても大きな影響を与えてくれました。

多摩地区に住む3人の女性のある1日を追った『すべての夜を思い出す』には、青年団の兵藤久美や、遊園地再生事業団などに出演してきた大場みなみといった、個人的な親交はないけれども、近しい世界にいる人々が出演していました。端的に言って、映画全体としてだけでなく、彼女らの演技はとても素晴らしいものです。抑制された演技は過剰なところが一切なく、むしろ過剰すぎるくらい身体を抑制することによって、過去の遺産であるニュータウンを背景としたこの国の重さを描き出していきます。

ほとんど表情を変えることなく、ほとんど大きな事件が起こることのない場所で、凪のように立ち尽くす彼女たち。その姿は、まるでギリギリ表面張力で保たれている水の入ったコップを持ちながら、静かに歩いている姿をイメージさせる。そのコップの水が、静かにこぼれ落ちてしまったかのような大場みなみのモノローグは、極めて美しいものでした。

青年団と遊園地再生事業団、彼らは、90年代に「静かな演劇」という新たな流れを生み出し、以降、現在に至るまでその抑制された演技のあり方は強い影響力を保っています。そして、石田徹也は、90年代中盤から00年代中盤にかけて活躍した作家です(宮沢章夫なら「95年以降」という時代区分を採用するでしょう)。

彼のシュールレアリスティックな画風は、唯一無二のものと言えるでしょう。社会との関係において、あるいは関係の取れなさにおいて、奇妙に変形されたその身体。圧倒的に変なのに、圧倒的にリアリティを感じてしまうのは、画家の個人的な感覚のみならず、同時代的な意味でリアリティを覚えるものであるからかもしれません。私は、彼の絵画を見ながら、同時代の人間として、例えば手塚夏子の「私的解剖実験」における、身体の変化の指示がもたらす奇妙な動きを思い出していました(この作品で、彼女は「お腹が赤くなる」「おしりがふわふわの毛になる」といった指示を遂行することによって、動きを生み出す)。身体は自明のものではなく、いつも奇妙な姿をしている。すぐに奇妙に変形してしまうままならなさを抱えている。画家は、(「彼の」のみならず)わたしたちの身体を描いたのかもしれません。

奇妙な変形。

ふと、石田が描くそれを、「演技をしていない身体」と言い換えられるのではないかと思いました。演技をしていないわたしの身体は、とても奇っ怪で、苦々しく、ままならない。だから、わたしたちは、演技をすることによって身体を保っています。しかし、演技をしないとき、わたしたちの身体は学校に埋め込まれたり、洗面台になってしまう。この変形を社会的な抑圧の結果と分析するのは、あまりにも一面的であるような気がする。むしろ、わたしたちの身体は、学校に飲み込まれたり、洗面台になったりしてしまうものであると言う方が、わたしにはしっくりきます。

清原の映画におけるコップの水をこぼさないための演技と、石田の絵画における演技のできなさ。それを併置したとき、わたしたちにおける演技とは、わたしたちを保つための演技なのかもしれない、という可能性に思い至りました。ともすると洗面台になってしまう自分の身体を保つために行われる、演技をしている。溢れそうなコップの水をこぼさないための演技。わたしたちがこの30年間に培ってきたのは、そのような演技のあり方であるのかもしれません。

では、そのコップの水を誰かに引っ掛けることはないのでしょうか?
コップを叩きつけて、破片ごと水をぶちまけることはないのでしょうか?

かつて、多くの演技とは、そのために使われてきた技術ではなかったのでしょうか? とてつもなく高度な繊細な慰撫のような演技と引き換えに失ったのは、そのような演技かもしれません。

香港のデモにも参加していた前述のMA Chi Hangが、清原の映画を見て「何も起こっていない」と批判的に言っていたのは、そんな演技のあり方の違いが作用しているのかもしれません。彼の境遇は、否が応でも、芸術が、世界に働きかけることを求めます。少なくとも、それを信じることを求めます。

わたしは、それを信じられるでしょうか?

もしも、それを信じるとしたら、わたしたちは演技のやり方を変えなければならないでしょう。コップの水を誰かに浴びせかけたり、コップを叩きつけるような演技を習得しなければならないかもしれません。あるいは、コップを差し出して、その水を共有するような。

わたしたちの演技の豊かさと貧しさ。それに気付かされたのは、ニューヨークという街に滞在していることが影響しているでしょう。I’m fineと言い交わす、少なくとも表面上は軽やかなこの街にいると、日本にいるときに感じる重さから開放されて、なにかに働きかけることができるような気がする。それは、自己満足と呼ばれるものであるのかもしれません。けれども、この街ではそれが許される。私はこうしたい、という意思を、この街はつまらないことだとは言わず、自己満足であると断罪せず、何も変わらないと冷ややかに眺めないような気がします。もしかしたら、この街は、そうやって、誰かの意志によって変わってきたという記憶を保持しているのかもしれません。それは、数少ないこの街の美徳であるように思います。

わたしは、わたしを保つ演技のあり方に強いリアリティを感じます。一方、それだけではなく、誰かに働きかけるという作用に興味を抱いています。演技を通じて、世界を変える可能性について考えています。

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