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無責任ノスタルジー

今年3月末、赤坂の老舗書店「金松堂」が閉店し、建物の解体工事の前に、45年降ろされることのなかったシャッターが姿を現した。
サザエさんのイラスト、「毎度ありがとうございます」の文字
錆び付き、色も薄れてはいるものの、風雨に晒されることなくそこにい続けたシャッターは、昭和の遺産が突然街に現れたようで、ちょっと話題になった。(シャッターは52年前に完成したものらしい)

仕事で赤坂に行くたびに、まだある、まだある……と思いながら、ビルの前を通った。6月に入る頃には、シャッターも含めビル全体が覆いで隠されてしまったので、あのシャッターはいつこの世界からなくなってしまうのだろう、と思いながら通った。
いつ覆いが外れるのだろう、と思っていたら、
気づいたら覆いの向こう側にビルはなかった。

気にしていたはずなのに、あっけなくなくなってしまった。
ビルがあった頃と同じ画角で写真を撮ろうとしてみたけれど、ビルがあった頃の写真のほうに、違和感を感じてしまった。
気にしていても、こうなってしまう。

***

歩道橋というものが好きなので、気に入った歩道橋があったら、必要なくとも渡ったりしている。
わりと好きな歩道橋があった。なんの変哲もない歩道橋ではあったけれど。
以前そこの近くのスタジオによく行かせてもらっていたので定期的に訪れていたのだが、そういえば丸1年ほど訪れていなかった。
久しぶりに訪れたら、歩道橋はなくなり、横断歩道になっていた。

驚いたのは、歩道橋がなくなったこと以上に、あまりにもその景色が自然だったこと。
わたしが歩道橋に興味がなかったら、なくなったことなんて気が付かなかったと思う。横断歩道になってから少し時がたっているのだろう、あまりにも自然に、まるでずっと前からそうだったみたいな顔して、歩道橋はなくなっていた。

その時、なぜだか無性に腹が立った。
当たり前みたいな顔してなくなってるんじゃないよ、と思った。
なくなったのなら、以前の痕跡を十分に残してくれ。あの頃に想いを馳せさせてくれ。わたしが覚えていたから良いものの、こんなに当たり前に忘れられてしまって良いのか。
きっと、わたしだって、すぐに忘れてしまうぞ。

***

あとから考えると、あの憤りは、
歩道橋がなくなったことに、安易にノスタルジーに浸りそうになる
自分の身勝手さに対する抵抗、でもあったと思う。

好きは当たり前になり、当たり前なことすら、日常に溶けて忘れてしまう。
そして、なくなった時、一丁前にショックを受ける。
残念がって、寂しがって、自分の中でその気持ちを供養したいから、せめてなくなったことに気づかせてほしい、と思う。なんと身勝手なことだろう。
わたしは、好きなものがなくなってしまった時、胸を張って悲しむだけの責任を持てているだろうか。そう思えるものが果たしてどれだけあるだろうか。

なくなった時だけ一丁前にノスタルジーに浸る、身勝手さ。
できるだけ身勝手になりたくないから、せめて今好きなものだけはと、噛み締めようとする。そんなことにすら、難しさを感じながら。世界は回る。


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