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額縁、ブランド、相応しい品格

この歳になると、わたしもブランド物のひとつやふたつ、愛用していたりする。
所謂ハイブランドの何かを持つことの意味合いは、(周りを見ている限り)わりと大人になるにつれて自然と身に付いていくものな気がするが、たまに、そういった方面に無頓着に生きてきた人の「ハイブランドだから持っているのね」という的を射ない反応を受けることがある。説明するのも野暮だが、ズレた反応だと本人が全く理解していないのはそこはかとなく癪なので、どうしたもんかと困ってしまう。滅多にないので、うまく説明できたことはまだないけれど。
中高生がハイブランドの品を欲しがり、持っていないと仲間に入れてもらえないからだのなんだのという話題は最近も目にしたし、わたしが高校生のときから「高校生の持つハイブランド財布議論」は存在する。自分の格式を上げてくれることもあれば、そこに至らない様を浮き彫りにすることもある、まずそこを理解できるかが問われる、ハイブランド問題。

『メトロポリタン美術館展』に行ったとき、「ブランド物を身につけるのって、絵画の額縁と似ているかも」と思った。
展覧会に入ってまず思ったことが、「額縁すご!」だった。最初のフロアがルネサンス期の絵画で、そもそも煌びやかな作品群だったのもあるけれど、それはそれは立派な額縁に拍手を送りたくなった。ひと目見て分かる、こりゃすごい作品たちだ。
額縁は、とても大切な要素だ。その作品の、そしてそれを展示している美術館の品格が表れる。メトロポリタン美術館という、世界屈指の美術館に所蔵される作品には、この立派な額縁が相応しい。

絢爛豪華な額縁が確固たる品格を作品に与えてくれるのは、当然、作品そのものの存在感が凄まじいから。このオーラを囲うに相応しい額縁であってくれ、と思う。(それだけの品格が持てたら、なんと格好良いだろうか)
ただ、価値あるものは一様に豪華なら良い、というわけではなくて、作品によって、その良さを引き出す額縁を選ぶ必要がある。ここにあるような西洋絵画にぴったりの額縁は日本画には合わないだろうし、言うまでもなくこれは両者の格式の差ではなくて、己の魅力を理解しているかの問題。
中には、素朴な木の額縁が作品の佇まいにぴったりなこともあるだろうし、プラスチックの額縁がキュートなこともあるだろう。不釣り合いな額縁に入っていたら、せっかくそれぞれに魅力的でも、無理して背伸びをしている印象を受けてしまう。自分に似合うかどうか、が何より一番ではある。

それでも、これだけ煌びやかな額縁がしっくりくる作品の品格は、凄まじいな。
景気の良い(という表現が合っているか分からないが)空間にいるときの、何らかの上向きなパワーを頂戴できている感覚は、良い興奮だなと思う。最後のワンフロアなんて、ピカソルノワールゴッホセザンヌモネあらまぁ!と、ここの空気にチップを払うべきなのではないかと思った。ぐるりと何周か満喫して、退場。

物販に複製原画コーナーがあり、なかなか立派なラインナップだった。店員さんが「普通はこの額縁だけで、このくらいの値段しますよ。わざわざフランスから、合う額を取り寄せているんです」と、お客さんに説明しているところだった。何かを考えていると、その話題をキャッチできるものね、などと思いながら、マグネットだけ購入して退散。

わたしがこの日一番気に入ったのは、フランチェスコ・グアルディの《サン・マルコ湾から望むヴェネツィア》でした。

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