見出し画像

0→1はあり得ないのでは?

どうも。

昔から日本人は「1→100」に発展させるのは上手いけど、「0→1」を創造するのは苦手だ、ということはあまりにもよく聞く話だと思います。

でも、ふと思いました。「0→1」を創造できる人間などこの世にいるのだろうか?

どんな特殊能力を持っている人でも、「お腹が空いてるから、みかんよ、ここに現れよ」と言って、みかんをその場に出現させられる人はいません。長期的に見れば、みかんを育てて出現させることはできますが、そのみかんも0からではなく、一粒の種からスタートします。

この日本社会でもっとも可能性の高そうな男、ミスターマリックでも、「0→1」を創造することはできません。全てのマジックには種も仕掛けもあります。(子どもたちよ、すまん!)

じゃあ、「0→1」とは何なのか、少し考察してみましょう。

0→1とは何か?

人間に「0→1」は不可能なので、0とは実際は「限りなく0に近い数字」なのではないかと考えます。

例えば、「0.01」とか。であれば、「0.01」に「100」を掛け合わせることで「1」になります。

「0→1は嘘で、0.01→1が真」というのがモビ君の意見です。

実際、発明王のエジソンさんも「天才は1%のひらめきと99%の努力だ」と言っています。何もないところから何かを生み出すことはできないのですね。

知的活動をシステムで捉える

人間の知的活動を一つのシステムで捉える場合、システム全体の「アウトプット」は「インプット」と「プロセッシング」の積で決まります。

例えば、100のプロセッシング能力を備えた人が、1をインプットすれば、100のアウトプットが得られます。同じ人が、0.01をインプットすれば、1のアウトプットが生じそうですが、現実はそうなっていない。

つまり、実際は0.01をインプットできていない。日常に転がる些細な0.01を見逃してしまっている。ここに日本人の創造性の問題があるのではないでしょうか?

学びの契機は「いま、ここ」にある

曹洞宗の開祖である道元は、「遍界嘗て蔵さず」と言う言葉を残しています。これは、真理を求めてひたすら修行を続ける禅僧に対して、「真理はあなたの目の前にある、何も隠されていない」ということを伝えようとした言葉ですが、禅僧だけでなく全ての人に該当する言葉です。

日常の些細な一コマ一コマに、1を生み出すヒントはゴロゴロ転がっている。芸人のネタ探しみたいなものです。キングコングの西野さんが、相方のカジサックさんとの間で起きた日常での出来事をよくネタにしていますが、非常に参考になります。

この前、久しぶりに大富豪をしましたが、よく分からないルールがたくさん出来ていてびっくりしました。その時、「大富豪のルールって誰が決めたのかな?ルールメーカーがいない中、どのようにルールが決まっていくんだろう?」と疑問に思いました。

こういう問いを深めていくと、その背後に流れる真理にたどり着けたりするものです。この姿勢であり、感受性みたいなところに、ブレークスルーのヒントがあるような気がしている今日この頃です。

では、さいなら!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?