見出し画像

仁和寺五重塔の心柱を君は見たことがあるかい?@京都お話会

京都に行ってきました。
最大の目的は、初めて京都で開催されるもぐら会のオフラインお話会に参加するため。
2019年6月の初開催時からずっとお話会は東京で開催されていて、京都が初めてというより東京以外の場所が初めてになります。
お話会は2020年コロナ禍で一時期オンライン(zoom)開催のみになり、その後オフラインとオンラインの二本立て、両輪で回っています。
もぐら会のメンバーは、オフライン、オンライン共に複数回設定されているお話会のうち、自分が都合のよい日程を選んで毎月一回参加します。
オンラインが始まったことにより、東京の会場に来るのが難しい方々も参加できるようになったのはとても素晴らしいことで、メンバーの人数も増えました。

お話会の最大の特徴は、ひとりひとり順番にただ話しをするということ。
聞き手も基本的にリアクションや相槌や質問をしません(思わず笑ってしまったり、もらい泣きしたりはあります)ただ聞いている。
聞き終わったら聞き手は拍手。そして話者は次の人を指名します。

話す内容に決まりごとはなく、定型として、前の話者から指名されたら「ご指名ありがとうございます」と受けて「今日の体調」を述べてから、自分の話したいことを話したいままに話したいだけ話す。
時間も決められておらず、長く話す人もいれば短い人もいますがひとりで一時間話し続けるような人はいません。会場を借りているかZOOMなので始まりと終わりの時間は決まっており、自分の後に何人話す人がいるかはわかっていますので。

わたしはお話会の第1回から参加していて、今まで2回行けなかった月があるので15回オンラインかオフラインかに参加してきました。
毎回お話会の不思議な魅力と言語化しづらい何かを感じるのですが、18回目の開催だった京都で今まで薄ぼんやり存在に気づいていた断片が見えた気が。。。


いったいいつからそうだったのか思い出せませんが、若い頃の自分はとにかく相手に合わせようとしていた気がします。
相手が望む言葉、相手が望むリアクション、相手が望む反応を返すことが自分の話すことのすべてで、頭と体にこびりついたその振る舞いに何の違和感も感じていなかった。
もちろん相手が望んでいることなど本当はわかるはずもなく、自分が勝手に想定した「相手が望んでいるだろう反応」なわけですが。
場の空気を壊さないように面白く話さなければ、誰かが投げた言葉をうまくキャッチして面白く返さなければ、オチをつけなければ。とにかく呪いにかかっていましたね。

育児が生活のほぼすべてだった時期は、子どもに対して自分の思ったまま感じたままの言葉を発している自覚がありました。
「かわいいね」「すごいね」「じょうずだね」など、子ども相手なら何も考えずに感じたままのことが口からでる。
育児書などに、なにがどうすごいのかきちんと言葉にして子どもに伝えましょうという趣旨のことが書いてあっても、無視して貧困な語彙のまま感じたままを口にしていました。
じつは大人に対しても自然に「かわいい」「素敵ですね」みたいなことはわりと口からでてしまいます。ポジティブなことばの敷居は低い。


かわいいね!と違って、「話す」となるとなぜ難しいんだろう。呪いにかかっているのはわかる、でもなぜこんなに心に浮かんだとおりに話すのは難しいのか。聞くのも一緒、相手の話を聞く。ただ聞くだけなのが難しい。


京都のお話会で、わたしは紫原さんに最初の話者に指名されました。
前日から京都入りしてお寺巡りをしているときも、お話会のことは気になっていて。いや違う、お話会のこと自体が気になっていたのではなく、話すことが浮かばない点が気になっていたのでした。

最初の話者になって話し始めると、はっきりと自分が「からっぽ」なのを自覚しました。その感覚を今でもはっきり思い出せます。全然いやではなかったのですが。

「からっぽ」からでてくる話は要旨を得ず何が言いたいのかわからぬグダグダで、しょうもないなあという感覚だけは残っていて。
話した内容は覚えていない。

「からっぽ」を自分が自覚すると同時に「からっぽ」なしょうもない自分がみんなにばれても怖くなかったのはなんでだろう。お話会では話を盛ったり装飾する気が全くおきない。いつもポツポツ喋っている。

ああ、そうか、お話会では評価やジャッジや優劣がないからなんだ。

わたしたちはいつもいつも、他者からの評価を気にしている。
ウケる、面白いといわれる、褒められる、場の空気、場のノリ、話すことだけではなくて、ツイッターもインスタもいいねの数が、PVがRTがフォロワーの数が、何から何まで評価が可視化されすぎている。

お話会での聞くことも評価やジャッジや反応の可視化と距離をおいて、ひとのはなしをそのまま聞く。優劣はない、自分の中に深くとりこんでもいいしスルーしてながしてもいい。
話の上手い下手も関係ない。流暢とは程遠いおはなしが心に突き刺さったりする。
誰かの話が誰かの心に響いたとしても、それは評価ではない。
リアクションも質問も対話もしない、ただ聞いているだけだからこそ。
聞き手も評価や影響力から自由でいられるのは素晴らしい。

もっともっと複合的な要素が絡みあってお話会の魅力は形作られているんだろう。人前でテーマも話したいこともないからっぽな自分からその時浮かんだことばを臆せず話すことができて、ただ聞いてもらえる場。

断片。ほかの人が語ればもっと違った断片も見えるはず。言語化しきれないお話会の魅力をこれからも体験していきたい。





 






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?