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身体性の獲得をめざす

とにかく疲れがとれない。気持ちがふさぎこむ。
社会的にやらなければいけないことの締め切りをなんとかこなしていくだけ。

そんないっぱいいっぱいの日々を過ごしていると、普段は心の奥底に沈んでいる恨みつらみや
後悔や自己嫌悪や妬みひがみ、ありとあらゆる呪詛がむくむく湧き上がってくる。

死にたさというよりは、生きていたくないと言った方が的確かもしれないこの精神状態。
長年の付き合いで、このしょうもなさをやり過ごすための、自分なりの策は持っている。



身体の調子がメンタルに多大な影響を与えるのはわかっているので、逆に利用することもできる。

とにかく寝る。寝て起きると気持ちも晴れる。 
何もしないことを自分に許す。着替えもお風呂もなし、ひどいときは歯磨きすらしない。
もちろん顔なんて洗わないし鏡すら見ない。
洗濯も掃除も食器洗いもできるわけがない。
ごはんを食べずにいると、低血糖になって寒くなるし頭もぼーっとする。
寒くなるとつらさが増すので、なんでもいいから食べて血糖値を上げる。暖かい方がよい。
寒かったら暖房もつけよう、服もいっぱい着よう。布団も最高だ。
暑かったら冷房をかけて布団にもぐる。
泣くのも有効で、一人でいるときに気兼ねなく泣けばよい。

大体こんな感じで、身体に作用させて脳に働きかけ、闇落ちを防いでいる。
落ち込むのなんて当たり前で、だれでも生きていたくないとき、消えたいときがあるだろう。

何度でもうまくやり過ごしていくしかないと思ってきたけれど....
私の場合、この方法だけではダメなのかもしれないとうっすら気づいてきた。



身体に愛着がないのは昔からだが、自分の身体をどう扱ったらいいのか、ますますわからなくなって、身体が空っぽの器のように感じる。最近とくにひどい。

風邪をひいたときと同じように、症状をおさえる対症療法ばかりしてきたが、これは糖尿病のような慢性疾患と同じで、根本から時間をかけて向き合うしかないのかもしれない。


処方箋的な仮説を考えてみた。


一つ目、なんでもかんでも自分で何とかしようとしないこと、から始めるのが良いのだろうか。

自分が弱っているときに弱音を吐いたり、甘えたりできる相手というのはすごくすごく限られる。
自分にとってそれらの人たちはものすごく大切な人たちだ。
これから先も間違いなくずっと大切にしていく相手だろう。
その大切な人たちが苦しいときには、私に弱音を吐いてくれたらすごく嬉しい。
私も弱音を吐きたい。
そうやって他者との間で関係性を循環させてみるのが大事なのかもしれない。

基本的に私はとても強いし、タフだし、神経も図太い。
ゆえに大抵のことは自分でできる。一人で行動するのもまったく苦ではない。
でも、自分の中だけで、ぐるぐるぐるぐるしていると、身体は空っぽの器のように感じられる。

この感覚をなんとかしたい。

身体に精神を宿すためには、ほかに何をすればいいのだろう。
とにかく身体に対する愛着がないことで、(言語化が難しいが)輪郭がぼやけて身体が透明になっていく感覚。
身体性に比重がないから生きている感じがしないし、生きている意味がないという思考に寄ってしまう気がする。


二つ目、身体性を取り戻すには欲望を持つこと、だろうか。

野心や功名心ではなく、もっと本能的な欲望が大事なのかもしれない(なんとなく)



三つ目、視覚に頼りすぎないで五感を使う、だろうか。

メンタルがおかしくなると、音に過敏になってしまい、テレビのニュースすらキャスターの話し声が耳について見ていられない。Youtubeも人の話し声が入っているものは一切ダメで、ドラマや映画やアニメも見られなくなる。
料理動画の作業音や音楽はわりかし平気。街のざわざわした音も平気。
視覚優位で視覚に頼りすぎている。



もぐら会の初めてのお話会だったか、二回目か定かではないけれど、かなり初期の段階で身体性について話した記憶がある。
自分の大きな穴の原因のひとつは、間違いなくこれだ。

もぐら会に入って、もうすぐ二年になる。
初めてのお話会に参加したときの記憶は全く色褪せず今でも鮮明に覚えている。
あのときから、社会も時間の流れも何もかも予想もしなかった方向に動き、これから先もわからない。
けれど、もぐら会は絶妙なタイミングで普段忘れていることを思い出させてくれる。
「自分と世界とを”自分自身で”堀り深めていく」
何回も忘れて、タイミングがくるとまたふっと思い出すのは、無意識下でずっとお話会のログが残ってるんだよね。

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