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道徳で習ったけどね、されて嫌なことはしないって


自分の発する言葉の加害性について常に意識しているつもりでいても、不用意に口にしてから、しまった...と気づくことも多いです。そのような場合の方がまだましで、全く気付かぬまま誰かのことを傷つけていることもあるでしょう。
自分が他者の何気ない言葉にえぐられる場合もあります。コミュニケーションにおいて、傷つきを完全に排除することは難しい。それは前提として、自分が言われて嫌だったことを他者には言わないようにしよう、という最低限の自分自身への約束が守れなかったときの話です。

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夜遅くに帰宅して一人で夕飯を食べていた息子と、バイトのことなどとりとめもない話をしていた時、私は彼に「あんたは自分がどれほど恵まれてるか、わかってないよね」と言い捨てました。
彼は「恵まれてるって誰が決めるの」と即座に反論。おちゃらけていて何でもネタにして笑いでスルーするタイプの彼が反応したのは、言葉にすごいトゲを感じ取ったからでしょう。
私はその時、疲れていたしイラついていたし気持ちが攻撃的になっていたのは間違いないです。
しまった、と思いました。なぜなら、この「自分がどれほど恵まれてるかわかってない」は、私が親に言われてムカついたトップ10に入る言葉だからです。息子のとりとめのない話を聞きながら、自分の大学時代の一人暮らしのことが思い出され、それと同時にこのコロナ禍でも上京している地方出身の大学生のことが頭をよぎりました。
目の前にいる大学生は、自宅から大学に通いバイト代はすべて自分の小遣い、同じ高校出身の友人・先輩が大学にもバイト先にも結構な人数いて、特段困ったこともなさそうで、ちゃらちゃらと日々を楽に泳いでいるようにみえます。頭では、コロナ禍で貴重な大学一年生を棒に振り、何も考えてなさそうでも、若者に葛藤や悩みがないなどあり得ないのもわかっていたのに。

彼は突然浴びせられた言葉にムカついたのでしょう、
「恵まれてるのと恵まれてないのの基準はどこか」
「自分は恵まれていますって言えばいいのか」
「恵まれているってわかったとして何をしろというのか」
と疑問点をきっちり並べて、自室に消えました。

私は何一つ答えられず、いちゃもん、難癖であること、深い意味はないことを彼にさらっと詫びて(言い逃れして)、なんで自分が言われて嫌だったことを言ってしまったのかなあと考えていました。

自分が恵まれている、恵まれていないと感じることは、あくまで主観。
どんなに経済的に裕福でも恵まれていないと感じている人に、他者が「あなたは恵まれているんですよ」と詰め寄ったところで本人の主観は変わらないでしょう。いろいろな体験や人との出会いによって、自発的に基準が変わらない限り、恵まれていると実感しない限り、変わりません。
私自身が、親しくもない他者から「あなたは恵まれている」的なことを言われると、あえて否定もしないがもやもやし、なんで比較されるのか謎に感じていたのに。

ではなぜ言ったのか。

八つ当たり、ですね。
こんなにやってやってるのになんにもわかってないね、という、憤り。わかってないでしょ、わかろうともしてないし、というやるせなさ。
やってやってるという感情は、自分にとって忌むべき大変醜い感情なので、自分が選択し自分の意志でやっているとポジ変することを意識に叩き込んできました。自分はいつも自分がやりたいからやっているという建付けが沁みついています。なのに心の底に沈めたはずの「やってやってる」と「わかってもらえない」意識がひょんなことでばーんと表面に出ちゃうんだな。簡単に消えてなくなりはしないんだなと改めて気づかされました。


とんでもないことを言って他者を傷つけてしまったかもという後悔は、今までもたくさんしてきました。
逆に傷つくことを言われた場合、私は長年にわたり傷ついたことを隠すという対応の仕方を取ってきました。
何事もなかったかのように振る舞う。そして、記憶ごとあっという間に底に沈めます。

もうそろそろ、このコミュニケーションの仕方をアップデートしたいかもしれない...
相手の感情を憶測で判断すること、自分の感情から目をそらすことをやめて、一歩踏み込んで相手と対話するのを目指すのはどうだろう。
他者を理解することの難しさを、簡単にわかった気になる怖さを、寄り添うという耳当たりのいい言葉で向き合うことから逃げていることを、
だんだんわかってきたから。
できるかできないかはおいておいて。


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