意図せず高校時代を振り返ったはなし。

絵日記や手帳を読み返しながら今年1年を振り返っていたら、
ふっと1年どころか15年くらいタイムスリップして、
高校生の頃の自分を振り返ることになった。

その時湧いてきたのは、
私、今思えばテストで良い点とってホッとすることはあってもそれが心の底から嬉しかったことってないな、ということ。     
小学校のときは100点とれて純粋に嬉しかったりしたけど、高校では嬉しさよりも安堵感が強かった

逆もしかりで、悪い点で悔しいというよりヤバい…と思うことの方が多かった気がする。
やっぱり私ダメだ...みたいな。

だから、テストを受けるときはいつも緊張していたし、
それ以上に緊張していたのがテスト返却の日。
もう、あの感情は恐怖と言った方がふさわしいレベル。

               

大学受かった時も安堵感の方が強かった。

「これでなんとか〝認めてもらえる自分〟でいられるかな」とか。
「やってきたことが無駄にならずに済んだ」とか。
恐らく深層心理でそんなことを思っていたんだろうな。
私、ダメにならないために勉強してたんだな。
そして、圧倒的な他人軸。
衝撃の真実・・・。

今だからわかるし、今だから言えることだけど。

              

そんな風に思いながら、だけど同時に
「あ、でも、点数関係なく、英語の文法の仕組みや語の成り立ちなんかがわかったとき、国語で素晴らしい表現に出合ったとき、苦手な数学でもまれに(笑)数式や解法が理解できたときは面白かったし楽しかったな」
という思いも湧いてきた。

それらはたぶん、知性や感性に対する喜び
わからないことがわかるようになる。
自分が美しいと感じることに出合う。
それは感動レベルの出来事。


あやうく、勉強でひとくくりにして「私、本当は勉強が嫌いだった…」と嫌な記憶にしてしまいそうだったけれど、嫌な事ばっかりでもなかったことにちゃんと気づけた。   
嬉しい事実。

『勉強』も、その内訳をちゃんと分けられるんだよね

分けたうえで、どちらが「良い・悪い」ではなく、
どちらの方を〝自分が望む〟か、選択するか。

絵日記学を学んで、自分が何を望んでいるのかわかるようになってきたら、
学ぶことが本分の学生時代よりも、学ぶことに対して貪欲になった気がするし、何より楽しいと感じられることが増えた気がする。


それと。
たとえ安堵感を得るためだったとはいえ努力して勉強していたことが全て無駄だった、喜びを伴わなかったから価値がない、ゼロになるということでもない。

これでやっと、あの頃、頑張っていた自分を本当の意味で認められたかも。



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