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ぎょっとする明治文学紹介

明治文学にはまって読んでいるが、たまに驚くような展開や設定、描写が出てきてぎょっとすることがある。時代の違いのせいか、作品の個性なのか、これも明治文学の魅力の一つだと思う。そんな短編小説を紹介する。

※各作品(「少女病」以外)のあらすじを最後まで書いているので、ラストを知らずに読みたい方は注意。
※この記事のリンクは基本的に国立国会図書館デジタルコレクションの該当作品に飛ぶが、青空文庫にある作品は青空文庫のリンクもつけている。

広津柳浪「亀さん」(明治28年)

野州烏山の法恩寺の息子亀麿は、知的障害があり、親からは寺の跡を継ぐことを諦められている。独特の見た目だが愛嬌があり、いつもへへと笑って、演劇の真似をするのが得意で遊女屋に余興に呼ばれたりもする。亀さんと呼ばれ、一種の名物男として近辺では愛される存在だ。
そんな亀さんが、若い娘を襲おうとするようになった。女と見れば自分の姉にまで抱きつく始末。この亀さんの変わりようの裏には、乞食同然の身に落ちている娼婦お辰のある目論見があった…。
と言う感じのあらすじなのだが、令和の感覚で見るとすでにかなり際どい。読んでいて勝手にハラハラしてしまった。
あらすじに戻ると、お辰は金を手に入れるために亀さんをたらしこみ、亀さんはお辰の言いなりになっていた。お辰は金を得るため、亀さんを使って自分の家に火をつけるのだが、酒を飲んで寝ていたために脱出し遅れてしまう。お辰は目覚めて逃げようとしたが、逃げきれず結局は焼け死ぬ。私は火が苦手なので、このお辰が焼け死んでいく描写にも凄まじいものを感じた。
正宗白鳥がこの作品を「悪趣味」と評していた記憶があって、私はそこまでは思わないが、心の中にある種の後味を残す作品ではある。
広津柳浪の作品では、「畜生腹」もなかなかの嫌な話だった。

山田美妙「武蔵野」(明治20年)

青空文庫
南北朝時代の武蔵野(今の東京)が舞台。新田義貞が戦死し、新田方の武将である秩父民部と世良田三郎も敵兵に殺されてしまう。
秩父民部の家では、その妻と娘の忍藻(おしも)が二人の身を心配していた。忍藻はまだ若いが、世良田三郎の妻でもある。武芸の嗜みがあり、豪胆なところがあるが、性格に女らしさもある少女。
翌朝、母親が起きると忍藻は鎖帷子や薙刀と一緒に姿を消していた。狼狽する母親の元へ、大内平太という武士が現れ、民部と三郎が亡くなったことを告げる。母親が忍藻がいなくなったことを話すと、平太は「さらばあの鎖帷子の……」と道中で見た死体を思い出す。忍藻は道の途中で熊に食い殺されていたのだった。という話。
夫の身を心配する姫が、鎖帷子を身につけて出陣!となれば色々展開がありそうなのに、熊に殺されて無残かつあっさり話が終わるのでびっくりしてしまった。作者がそこに浪漫を見出していたのかもしれないし、今のような小説の作法が確立していなかった時代だからこその展開かもしれない。
この作品は文体も見所で、地の文は言文一致、台詞は慶長・足利頃の言葉を使って古語風になっている。短いので読みやすく、手軽に言文一致体の創始者である美妙の文章が楽しめる。

幸田露伴「対髑髏」(明治23年)

語り手の「露伴」は山の中で迷っていたところ、人家を見つける。助けを求めるためその家を訪ねると、意外にも20代の美しい女性の一人暮らしだった。女は露伴を家に泊め、自分がなぜこのような暮らしをしているのか、打ち明け話をする。翌朝、家も女も消えていて、足下に髑髏だけが落ちていた。露伴は近隣の村まで出て温泉屋に行き、「この山奥に入りしまま出て来ざりし人なかりしや」と訊ねると、亭主は去年来た乞食の女の話をする。
この乞食女は病を患い、かつ気が狂っていた。彼女の容貌に関する描写が凄まじく、私には読むのが怖いような感じだった。「手足の指生姜の根のように屈みて筋もなきまで膨れ」というところから始まり、左手の指はあらかた落ちてなくなっているとか額の穴から膿汁が溢れているとか右の目が腐り落ちているとか、そんな風に書かれている。手元にある『文豪怪談傑作選 幸田露伴集 怪談』(東雅夫編 筑摩書房 2010)を見たところ、乞食女の見た目や悪臭について25行もの描写を費やしている。古風な怪奇譚と思って読んでいたので、突然事細かにこんなことが書かれていてびっくりした。しかしこの記述が、この作品を非常に心に残るものにしていると思う。女の境遇に対して感じるものも、より深まる気がする。
露伴の文章は文語体で漢籍の素養がないとわかりづらいところもあり難しいのだが、頑張って入っていくと、徐々にその独特のリズムが心地良くなって来る。

田山花袋「少女病」(明治40年)

青空文庫
主人公の杉田古城は冴えない中年男。一応文学者で若い頃には受けた作品も少しはあったが、今は面白くもない雑誌の校正をして妻や子どもと暮らしている。この男はとにかく若い女性が好きで、若い娘の美しさにばかり気を取られてしまう。通勤の電車の中ではきれいな娘ばかりを見ている。
この作品のぎょっとするところは説明しない。読んで体験してほしい。
ぱっとしないおじさんが「若い女の子いいよね…」し続ける話なので何を読まされているんだとは思いつつも、電車の中の美しい女性の描写は心に残る。「信濃町で同乗した、今一度ぜひ逢いたい、見たいと願っていた美しい令嬢が、中折れ帽や角帽やインバネスにほとんど圧しつけられるようになって、ちょうど烏の群れに取り巻かれた鳩といったようなふうになって乗っている」という文章は、混んでいる電車に乗っているときふと思い出す。

正宗白鳥「泥人形」(明治44年)

守谷重吉は、古い友人である矢澤の奥さんの世話でこの七年間に何度か見合いをしているが、なかなか結婚が決まらない。ある時田舎出の娘と見合いをしたところ先方が乗り気になり、その娘が気に入ったわけでもないのについ「ぢやあれで往生しますか」と口を滑らせ、結婚することになった。結婚をしても別に相手が気にいるわけでもない。重吉は妻に「今更お前を處女として家へ送り還すことも出來んからね。こんな破目になつちやつたんだから、お前も仕方がないさ。」と言い、「仕方がなかないわ。私、貴方の妻ですわねえ。」と返されてもこの女の顔を「わが妻の顔」とするのが不思議に思われて返事もしない。
他の作品と異なり、人が死んだり残酷な事件が起きたりはしない。ある男の結婚の顛末が書かれているだけだ。この作品のすごいところは、作者の体験を大体そのまま書いたという点にある。それにしてはあけすけに妻への愛情のなさが書かれていて、ぎょっとするのだ。
妻となる娘と初めて会った時には、「何のために自分が此處へ引出されて來たかといふ感じがした」とろくに口もきかず、結婚式では花嫁の姉の方が綺麗だと口に出して言う。三々九度の盃では妻の唇に触れたところに口をつけたくなくて指で唇を拭う。妻と二人で暮らしていても「縁も由所もない娘を預かつてゐるやうに思はれて」ならない。妻や妻の家族はこれを読んでどう思ったのか、他人ごとながら心配になる。後藤亮「正宗白鳥の生涯」によると、批評家からは「後味が悪い」「不愉快な作品」などと言われていたらしい。白鳥に好意的な広津和郎(作家で広津柳浪の息子)さえ、この主人公には「ムカムカする程腹が立ちました」と評していたとある。
そんな作品ではあるものの、現代に生きる私からすると、明治の結婚の実態を見るという点で興味深い。また白鳥は文壇では愛妻家として知られていたと何かで読んだこともあるので、どこまで記述を真に受けていいか、私小説的な作品の味わい方を考えるきっかけにもなるかもしれない。
参考:後藤亮「正宗白鳥の生涯」(『現代日本文学大系 16(正宗白鳥集)』筑摩書房 1969)

出版情報

今回紹介した作品は新刊書店で買える本に載っているものが多いので、ぜひ触れてみてほしい。
・「亀さん」:『明治深刻悲惨小説集』齋藤秀昭編 講談社 2016 (講談社文芸文庫) ※電子版あり。めっちゃ良い明治文学アンソロジーなのでおすすめ。
・「武蔵野」:『いちご姫・蝴蝶』山田美妙 岩波書店 2011 (岩波文庫) ※品切れとあるが、岩波の本は返本不可なのでまだ店頭にある可能性がある。私も去年書店で新刊を買った。電子版あり!
・「対髑髏」:『日本近代短篇小説選 明治篇1』紅野敏郎ほか編 岩波書店 (岩波文庫)
・「少女病」:『文豪と女』長山靖生編 中央公論新社(中公文庫)※電子版あり

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