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わたしが先生だった頃

人生のおよそ六分の一にあたる約五年もの間、わたしは塾講師として働いていた。正確に言えば、塾講師のアルバイトだ。科目は英語たまに国語と社会で、下は小学二年生、上は高校二年生まで担当した。いまだに顔や名前を覚えているような子も沢山いて、夏の甲子園の時期になるとつい生徒の名前を探してしまう。先生のこと甲子園に連れてったるわと!宣言したあの子は、今どうしているだろうか。

夕方六時頃になると、校舎内は途端に騒がしくなる。学校終わりの生徒たちの多くは、まだ放課後に味わったのであろう熱気を抱えながらやって来るので、産まれたての赤ちゃんみたいだなといつも思っていた。もしくは、焼きたてのパンだ。蒸気が目に見えそうなくらいに、彼らは熱を持っていたからだ。部活帰りの生徒なんかはまだ息が切れたままやって来たりするので、外周三周目辺りでそのまま抜けてきたんちゃうか?と思わせられるほど、熱く、火照っていた。当然靴裏には沢山の砂利を蓄えてやって来るので、授業中はパンプスの裏で、彼らが走り回ったであろう運動場をじゃりじゃりと感じた。

ちょうどメンタルを病ませていた時期に、塾講師をしていた時のこと。一年目にハラスメントを受け、限界が来た二年目。その後休職したのちのことだった。小学生の頃からずっとお世話になっていた塾で働かせてもらえることになったのだ。休職し社会の歯車からはみ出たような気持ちだったわたしにとって、社会の中に自分の居場所が在るということは本当に救いだった。それでも塾の時間が近付くと勝手に涙が出たり、不安からか元々の不眠が悪化したりもした。考えがまとまらず思考が停止してしまう日もあって、駄目な日は当日欠勤する事も度々あった。一進一退の体調・精神状態に、振り回される日々だった。わたし自身が振り回されるのは仕方がない。居場所をつくってくれた先生方まで振り回してしまうことが、情けなく、とても辛かった。それでも嫌な顔一つせずわたしを受け入れてくれた先生方には、感謝してもし切れない。ごめんなさいとありがとうの気持ちを抱えながら、日々授業に臨んだ。

とは言え授業が始まると、スイッチが入るのか、ハイな状態で教えることが出来た。普段はかなり陰鬱な生活をしていたから、強制的であっても明るい自分に戻れることはとても有難かった。しかしながら授業が終わると張り詰めていた緊張の糸が解けるのか、ストンと電源オフの状態になってしまうことが多くあった。

その日も同じように授業を終え、完全にオフ状態になっていたわたしに、一人の生徒が話しかけてきた。

「先生夜ご飯何食べたん。」

授業内容をファイルに書き留めながら答える。

「いつも夜ご飯は食べずに来てるで。」
「なんで食べてこんの。お腹空くやん。」

この子はいつもわたしにタメ口を使ってくる。わたしはよく生徒に、友達みたいな扱いをされた。多分あまり良くないことなのだろうけれど、わたしはそれが少し嬉しかった。

「緊張して食べられへんねんな、授業前は。」

授業終わりなこともあって、つい本音が漏れる。
しかし彼はそれに気にすることなく、どんどん質問を投げかけてきた。

「そんなんめっちゃお腹減るやん!食べた方がええで。なんで緊張すんの?」

「授業とか、他にも色々なこと、間違ったらどうしようって思ってしまうねんな。間違ったこと教えてしもたら、アカンやろぉ。」

少し笑いながら、そう答えた。すると彼も、笑いながらこう返してきた。

「先生、そんなん間違ってもええやんか。間違ったときは、間違ってごめんって謝ったらええんやで。」

視線をファイルに落としながら、
「そうやんな。」と返した。

鼻の奥が思わずツンとなり、彼と顔を見合っていなかったことに静かに安堵した。そうやんな、そうやんな、とその言葉を噛み締めるように何度も呟きながら教室を出た。たまらずすぐに上司にその事を伝えに行った。よく考えたらわたしの色々を訂正しては軌道修正を繰り返してくれていた上司に、間違ったときは謝ったら良いんですって! なんてよく言えたなぁと思う。でも優しい上司は彼の発言に一緒になって感心し、そして笑ってくれたのだった。間違ったときは謝ったら良いという簡単なことが分からないわたしに、教えられている彼。この日だけは、彼がわたしの先生になったような気がした。

そんな彼の言葉は数年経った今でも、わたしの毎日を支える柱の一つになっている。精一杯やって、それでも間違えてしまった時には、ごめんなさいと謝ったら良いのだと。それを疑ってしまうような日もたまにあるけれど、あの時の彼の真っ直ぐな笑顔を思い出すと、信じてやってみようと思えるのだった。

おそらくそろそろ、大人の仲間入りをする年齢になったであろう彼。わたしに大切なことを教えてくれた彼を取り囲む世界が、少しでもやさしく、そして許しあえるものであったら良いなと、先生は願っています。

ツマ


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