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オトナの階段

なあ今日ジャズ喫茶行かへん?と夫に誘われた。間髪入れずに行こう!と返事をした。というのもわたしはちょうど新しい出会いを求めていたところだったからだ。先々月30歳になったわたしの今年のテーマは、フッ軽。今までのわたしは新しい好きを見つけるために飛び込んでいくというよりも、好きになったものを何度も何度も咀嚼して、味がなくなってもずっと口の中に入れているような感じだった。でも30歳を迎え、年を重ねていることをようやく自覚し始めた今年は、あまり怯えずに色々挑戦しようと決めたのだった。新しいものをもっと見てみたいと思うし、好きを増やしていきたいと思っている。だから今回の夫の誘いを快く受け入れた。わたしも夫も音楽は好きなので、心地よい音楽を聴きながら喫茶を楽しむなんて想像するだけでワクワクする。行こうじゃあないか。ジャズ喫茶なるところへ!

しかしわたしは今までジャズをちゃんと聴いたことすらなかった。映画スウィングガールズは好きで何度も観たけれど、上野樹里さんの可愛さに気を取られてジャズは二の次。ドゥーダ、ドゥーダのリズムがジャズだと顧問役の竹内直人さんが言っていたことだけ覚えている。あと紅の豚に出てくるショートカットの美女が歌っているのは、たしかジャズだったような。そんな程度の関わりしかない。夫は中学生の頃に一枚だけジャズのCDを購入したそうだが、それ以降ジャズを聴き漁ったというわけでもなく、何故買ったのかすらも覚えていないらしい。二人でどんぐりの背比べをしているみたいだ。しかしわたしが今まで出会った尊敬している(数少ない)大人達は、何故か皆揃いも揃ってジャズを愛していた。仕事が休みの日はジャズ喫茶で一息ついたり、レコードを集めたりする人もいて、それはとてもかっこよく見えた。巷で人気の流行ど真ん中な音楽も良いけれど、昔から今も変わらず愛される音楽の良さも知ってみたい。うんうん、やっぱり行こうじゃあないか。ジャズ喫茶なるところへ!!

ドがつくほどジャズ初心者のわたしたちがまずやったことは、入りやすいジャズ喫茶探しだった。京都だけではなく大阪も調べてみたら、なんとわたしたちのようなジャズ初心者人をやや邪険に扱う店がいくつかあったのだ。一見さんお断りとまではいかないけれど一番気になった店の口コミがそんな感じだったので、Google検索をしていた夫の目は泳ぎまくっていた。初めて行った場所でそんな扱いを受けたら、おそらく今後わたしたちの足はジャズ喫茶と名のつく場所から遠のいていくだろう。そんな中、一つのジャズ喫茶を見つけた。「Jazz cafe Chetty」というお店だ。ジャズミュージシャンのChet Baker「Chetty's Lullaby」という曲から出来たお名前らしい。背の高い大きなスピーカーが二本も立つ店内の写真、そしてHPに載っている店長さんの言葉、それらは全て想像していたジャズ喫茶のイメージよりもはるかに明るく親しみやすい雰囲気だった。地下鉄烏丸御池駅から歩いて5分というのも大変有り難い。少しでもその場に馴染めばと少し背伸びして買った襟付きのシャツを着て、夫とわたしは初めてのジャズ喫茶へと向かった。

その前に景気をつけようと、二人で何億年かぶりのサイゼリアに行った。昼間にサイゼリアで好きなものを頼みワインを飲む、簡単に叶う擬似豪族体験である。生ハムにチーズにピザ、懐かしの辛味チキン、そして赤ワインを楽しんだ。しばらくして前に座っていた夫の目がポッキーくらい細くなり、突然「ワインに弱いん!」と言って一人で笑い出した。何言ってんだこいつと思ったが、わたしも体が心臓の鼓動に合わせて大きく拍動していることに気付いた。二人しておかしくなった。昼間から食べて飲んで、ゲラゲラ笑いながら外に出た。寒い風も物ともせず冬物コートの前を開けて、街中を闊歩する。酔いに任せてジャズ喫茶に行ってしまえば、もう怖いものはない。しかし大した量を飲んだわけではない。こんなにも陽気になったのはわたしたちがただ単に酒に弱かっただけだったので、すぐ酔いは覚めてしまった。アルコールも飛びギンギンに冴え渡った眼でGoogleマップを見ながら歩けば、オープン10分前にJazz cafe Chettyに着いてしまった。こんな時でさえ時間前に到着してしまう己の真面目さを呪った。今回ばかりはただ緊張を味わう時間が増えただけだったからだ。

時間になり、えいやとエレベーターへ乗り込む。怖い人だったら嫌だな、もっとちゃんとジャズを聴いてきたら良かったな等と考えながらドアを開けると、眼鏡をかけた優しそうな女性が顔を覗かせてくれた。そう広くはない落ち着いた店内に、カウンターとテーブル席が二つ。ついカウンターを避けて座ろうとしたら、腰を痛めているのでカウンターへどうぞと誘ってくれた。初めてのジャズ喫茶でカウンターに座る、それだけで胸がいっぱいになった。しかもお客はわたしたち二人だけ。街中にこんなに静かな空間があるのかと思った矢先、店長さんが愛犬を撫でるかのように慣れた手つきでレコードを動かした。店内にジャズが流れ始める。何という曲なんだろうと思ったと同時に、流れているレコードをカウンターに向けて置いてくれた。わたしはチャイ、夫はコーヒー、半分こをして食べようとロールケーキを注文したところで、一人お客さんが入ってきた。聴く人が増えたことで、レコードから流れてくる曲がさらに盛り上がってきたように感じた。誰かと共有しながら何かを楽しむということは、わたしにとって大きな意味を持つのかもしれない。聴く人・オーディエンスが増えることでまるで劇場にいるかのような気持ちになり、客席にいるわたしの興奮もより高まったのだろう。もうすでに、最高の気分だった。

初めてちゃんと聴くジャズは、言うまでもなくめちゃくちゃかっこよかった。つい上半身がリズムに乗ってしまいそうになったが、注意書きに「ハミングはお控えください」のような言葉があったので、カウンターから隠れた足の親指だけで静かにリズムに乗った。ハミングの意味は店を出てから帰宅して何週間経った今でも、実は分かっていない。体を揺らすことはNGという意味だと理解をした。静かに目を閉じて曲に耳を傾けるとまるで隣で演奏をしているような音の重さが感じられ、事前に写真で見た大きな二本のスピーカーの実力を思い知った。

うっとりし始めたころ、店長さんが話しかけてきた。お砂糖は必要か尋ねられたのと、壁に飾られたカップの中からお好きなものを選んでくださいとの事だった。わたしはお店に入ってすぐからずっと見つめていた緑のカップを迷わず選んだ。自分が選んだ器に注いでもらったチャイはいつもより愛着がわいて、飲み切るのにかなり時間をかけてしまった。夫はえんじ色の渋いカップを選んでいて、それもとても愛らしかった。

温かいチャイを飲みながら目を閉じてずっと耳を傾けていると、頭の中がどんどん空っぽになって、全身が空洞になったような感覚に陥った。体の中を気持ちいい風が優しく通り抜けていくようだった。特に一枚目のB面に選んでくれたレコードの曲に、わたしは一目惚れをした。イントロから胸にくるものがあり、涙が出そうになるほどだった。ジャズといえば軽快なピアノ、その跳ねるような音から生きる強さみたいなものを感じられる曲調が多いと勝手に思っていたのだけれど、その曲は良い意味でわたしの予想を裏切ってくれた。イントロの静かなピアノから弦楽器が加わった瞬間の混ざりが、とても美しかった。弦楽器だから表現できる切なさは、わたしを一瞬で虜にさせた。(調べてみたらMarc Hemmeler「easy does it」というアルバムの中にある「Stephane's Song」という曲だった。良ければ聴いてみて欲しい!https://youtu.be/VDAeHyvm9yg?si=gq06W0kfd_x25CNU)

お店に来てから何分経ったのかも分からなくなってきたころ、店長さんがさらに話しかけてくれた。いつもどんなジャズをお聴きになられますかとのことだったので、正直にずっと興味はあったけれど今日初めてちゃんと聴いたことを話した。すると店長さんは、日によってあっさりしたものや濃いものが食べたくなるような感じでその日の気分で探してみると良いと教えてくれた。言葉の節々から店長さんの人柄が伝わった。それはとても優しく和やかだったので、わたしはどんどん話したくなった。ピアノが中心の元気が出る曲が聴きたいと言うと、ウエストサイドストーリーに出てくる楽曲のカバー曲を選んでくれた。リクエスト通りはつらつとしたとても元気が出る曲で、音符が部屋中に飛んでいくようだった。こんなにも沢山あるレコードの中からリクエスト通りの曲を選べるなんて魔法みたいだとも思った。言うまでもなく店長さんもまた、わたしが今まで出会った尊敬する大人のうちの一人になった。

帰る直前、ジャズのことが分からない人間が来て良いのだろうかと迷いながら来たこと、でも来て本当に良かったということを伝えるとにっこりと笑ってくれた。外に出たら行きしなどんより曇っていた空がすっかり晴れていて、嬉しくなった。空の青さも空気の冷たさも、何もかもが鮮やかに色濃く感じられることに驚いた。そして夫にどの曲が一番良かったか尋ねてみたら、わたしが一目惚れした同じ曲を挙げて涙が出そうになったと同じ感想を持っていたことにさらに驚いた。

そんな夢のような時間を過ごした後は、少しずつ自分がいつもの日常に馴染んでいく事が疎ましく思えてしまう。旅行の後などにもわたしはよくそうなる。でもあの日の出来事を思い出すと段々心の中がぽかぽかとあたたまり、何とも言えない優しい気持ちになれた。うんざりするような出来事があっても、今もあの部屋では変わらずジャズが流れているのだろうと想像すると自然と頬が緩んだ。わたしが好きなあの場所は誰にも奪われないし、守られているのだという安心感に包まれたのだった。というわけでわたしの新しい好き見つけ第一弾は、大成功に終わった。思い出すだけで救われるような場所や人やものをどんどん味方につけて、30歳の年をより彩っていきたいと思う。

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