公衆衛生上の心の病の一次予防について〜言葉の暴力〜


飽くまでこの人生23年間で考えてきたものであって、完全に自分の中で完結している考察なので大幅に違っていたら、何言ってんだってことで流して欲しい。ここでは、人の「能力」について書いていきたい。
人が傷つく理由は色々あると思うが、その中でも「言葉の暴力」で傷つくことはとりわけ頻繁に訪れるのではないか。
言葉の暴力で有名なのはアホ、カス、◯ねだろうか。シンプルに傷つくやつだ。


自分がどんな人であるか認識するためには「第一の主観的な自己認識の形成」→「客観的な評価によるフィードバック」→「第二の主観的な自己認識の形成」→
といったように何回も更新されていく。
例)自分は歌が上手い→音痴だと言われる→自分は歌がうまいと思っていたが、どうやら音痴なようだ。

傷つく場合には、自分が思っているほど自分は能力がないと感じる時であると思う。そして、多くの場合能力が足りなければ人から必要とされないという暗黙の了解が存在する。そして、人から必要とされない時、とても落ち込む。
就活はこういった意味で落ち込む要因を作る最たる例だと思う。就活は簡潔に言えば会社が欲しいと思う「能力」が一定水準に達している場合に特定の人物を採用する。
マッチングアプリでの婚活等も、まず最初は顔の魅力、年収等の能力を見られるので、選ばれなかったら落ち込むだろう。
ここで重要なことは能力値が「相対的に高いこと」だと思う。
受験の際は「その年の受験者の中で」より優秀な成績をとったものが合格する。就活も、その就活生の中でより能力の高い人材を選抜する。

傷付き方の種類

○謙遜による傷付き


謙遜することによっても人は傷つく可能性がある。それは謙遜する主体の能力値が「自分から」見れば高い場合である。
謙遜する主体は自己認識として、ある集団の中において相対的に能力値が低いと認識している。だが、自分から見ればその主体はある集団の中において相対的に能力値が高い。
ここで、自分の中で仮定している集団が、その主体の謙遜によって集団のレベルが自分が思っているよりも高いことを推測させる。

仮にこの謙遜主体の能力が自分より高い場合には、さらに自分の地位が低いことを思わされる。
「全然英語できないわw TOEIC950点だしw」という発言をある人がした場合、明らかに全国的に見れば点数はとても高い。受験者の点数の統計を見れば尚更明らかだ。
だが、この主体は自分の点数が低いと認識している。冗談なのか本気で言っているか考える必要もあるが、本気で言っている場合は、客観的データを見ていないか、話している相手の英語能力が高いか、もしくは自己への戒めを含めた発言か等だろう。

「全然勉強していないわ〜〜〜」という発言も自己認識の誤り、もしくは仮定している集団を高く見積もっていることからくる発言である という見方もできるかもしれない。

結局のところ、この謙遜によって自分の能力が下であることを突きつけられるため、聞いた人は傷つく。

◯事実を突きつけられる事による傷付き


自分の能力がないことを客観的に突きつけられるため、自己認識にフィードバックが与えられる。そして、その事実を自分が是としていない場合、傷つく。
よく、「だって事実じゃん」って文言が言われたりするが、事実で傷つく可能性はある。

◯侮辱による傷付き

アホ→他人からこの文言を言われることによって、客観的に自分の何らかの能力が劣っている事実を突きつけられ落ち込む。この文言を言われた際、自分のことを主観的にアホだと思っていた場合はより効果がある。

カス→アホに同様

馬鹿→アホに同様

◯ね→自分の存在意義を客観的に否定されることによって落ち込む。

これらの言葉は簡単に人に能力の低さ、そして存在意義の否定を突きつけることができる。自己肯定感が高い者に言えば、その言葉を重く捉えることはない。しかし、自己肯定感が低い者に言えば凶器になりうる。
結構簡単にいっている人もいるが、個人的にめちゃくちゃ嫌いだ。お手軽で他人を傷つけることができるし自分はノーダメージ、安全圏から簡単に人を蔑ろにできる。

結論

結局何が言いたいかというと、人が人と接している以上人は傷つく。そして、3番目の侮辱はなくすことができる。
SNSを通じて確実に他者からの能力値の選定がシビアになった。簡単に自分の上がたくさんいるとわかる。
侮辱はある種の他者からの能力値選定であり、言われれば言われるほど自分の能力が低く見積もられていく。
有名人への侮辱でその有名人が自殺してしまうという事件が後を絶たない。自分の認識する能力値が低くなっていく過程で自分の存在意義・他者からの承認を見失い、この世から去っていく。
言葉で人は救われて、言葉で人は傷付く。その動的な平衡が崩れた時心が病む。
医療は人の病を治療することができるが、治療は飽くまで「なってから」の話であり、そもそも「病気になんてならない方がいい」。公衆衛生はこの「一次予防」に重きをおいていると思うが、現状言葉による心の病に関してはこの一次予防策があまり取れていないように感じる。
これから心の病に関する公衆衛生上の一次予防がよりいい方向に向かうことを願いたい。

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