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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[096]初めての会話

第5章 モンゴル高原
第1節 林の中の出会い
 
[096] ■3話 初めての会話
 人心地がつくと、ナオトは急に眠たくなった。ここ数日間の緊張が解けたのだ。
 遠くからくまを見た。オオカミがさまざまな声音で吠えるのを夜ごとに聞いた。見たことのない大きな獣が木立ちの間を静かにのっそりと動いていく姿も見た。風下にいたから難を避けられたものの、どれほど危うかったかを、ナオトはずっと後にゾチロムから聞かされた。
 火のそばでひとしきり転寝うたたねを打ったところで、気が付いた。
 ほのかに明るい囲炉裏火の向こうで、ゾチロムがやじりらしいものを石に当てて研いでいた。目が覚めて起き上がったナオトに、それをひとつ放ってよこした。
 鉄製の鋭く長い鏃だった。先端から流れるように長く二つに分かれている。ナオトは興味深げに手に取り、ひっくり返したり指先で鋭さを確かめたりしていたが、それを見る目の色は変わらない。戦士ではないなとゾチロムはすぐに見抜いた。
 ――やはり奴隷だ。ならば話は早い。

 ゾチロムがナオトの背負子しょいこを指差した。
「これか?」
 ヒダカ言葉で答えて、ナオトは毛皮の敷物の上に中身をぶちまけた。何もない。ヨーゼフが持たせてくれた袖のない使い古しのシカ革の上着が目を引くくらいで、持ち物というには粗末なものばかりだった。
 火熾ひおこしに使う凹みのある板とそれに紐で留めた棒。革の袋からわずかに覗いている竹笛。栓をして紐を掛けた小ぶりのかめと、ヒツジの薄い革を丸めたものが三枚。二枚は地図、残る一枚にはソグド語のような文字が書いてある。匈奴の若者は気付いたが何も言わなかった。
 荷物の中でひとつだけ、カケルにもらった小刀こがたなが場違いな雰囲気を漂わせていた。このところずっと腰に付けていたのに、今朝、袖なしと一緒に背負子に入れたと、いま思い出した。
 ゾチロムは囲炉裏の向こうで笑っている。何も持っていないなとでも思っているのだろう。ナオトは、
 ――ああそうだ、
 とうなづいて口の端で笑った。
 小刀を指差し、見せろという仕草しぐさをしたので、革製のさやごと放ってやった。鞘から抜くと、ゾチロムはこのときばかりは真顔になって、重さを量ったり、左右の手に交互にもって構えたりした。刃を親指のつめに当ててみて何とかと匈奴言葉で言うと、鞘を添え、刃先をつまんで手渡してよこした。
 代わりにと、自分の革帯に差した短剣を鞘から抜いて手のひらに置いて見せた。先がややっていて細く、それを握るつかの部分には複雑な模様がってある。
「父の形見かたみのペルシャの短剣だ……」
 剣先を見ながらそうつぶやいたのだが、もちろん、ナオトにその意味はわからない。ただ、ペルシャは聞いたことがあると思い、剣よりもむしろつかの飾り彫りの方に目が行った。

 ナオトの持ち物の中に一枚の絵があった。カバの皮に書き付けた炎のような形をしたうつわの絵だ。もう消えかかっている。それは何だとゾチロムが身振りで問うので、抜き身の小刀を手に戸口に立って行き、土を掘って握ると、火のそばに戻った。その土を両手で丸め、中をるように親指で抑え、どうにかくぼてに見えるように形を整えた。
 まだ怪訝けげんそうな表情を解かないので、ゾチロムの右に転がっていた木の椀を指差した。さすがにわかったのか、なるほどと頷いた。それがお前のやっていることか、とあなどるような様子を見せ、匈奴の言葉でそう問うた。
 ナオトは、先ほどのやじりを上向きにゾチロムの方に突き出し、次に、土の丸い塊を左手で自分の胸元に持っていった。若い二人は、それで互いを理解した、と思った。

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