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芸人が犯罪で世間に対して試し行為 犯罪芸人とカトリックは同類 来世 罪の口伝

1、試し行為
犯罪芸人は、世間に対して試し行為をしている。
試し行為 - 検索 (bing.com)  
試し行動は相手の気持ちを知りたいがための、かけひきの一つです。

拒否、されるのが怖いのだろうか。
世の中の九割は合わないモノだ。
犯罪芸人は自身の毒親に洗脳された状態だから、他人なんかどうでもよかったのだろうか。

世間体を気にする人は、他人が自分を受け入れないと怒る。
しかし、そういう人は、他人を受け入れない。
犯罪芸人も、自分に敵対的な週刊誌に対して威圧的に接するのは、自分をありのままで受け入れない週刊誌に対して怒るからだ。

世間体を気にする人は、自分を受け入れない世間に怒る。
例え、世間が本当は受け入れていても、受け入れていないと感じて怒る。
根本的に真実が判らないから、受け入れられているかどうかが判らないから怒る。

犯罪芸人が性交同意に異常にこだわるのは、相手が自分を受け入れられるかどうかが重要だからだろう。
自分で自分を受け入れていないから、他人に受け入れてもらわないと、自分の存在価値が感じられない。
自分で自分の価値を確立できない心理状態だから、他人に自分の価値を確立して貰わないと、自我や自尊心を保てない。
そういう心理状態になったのは、毒親に否定された人生だからか。
毒親の利益にならないと否定される養育環境だったのか。
他人の踏みにじるのが目的で、強姦は手段でしかない。
踏みにじっても受け入れられるから、受け入れられていると感じる。
踏みにじらない状況で受け入れられても、踏みにじらない自分が受け入れられているだけで、自分の全てを受け入れられていると感じられない。

犯罪芸人は、犯罪を受け入れないなら、自分を受け入れていないと感じて怒る。
犯罪を黙認しても、本当に受け入れられているか不安だから、また犯罪をして試し行為をする。
犯罪を受け入れてもらったなら、一時的に満足するけど、すぐに本当に受け入れられたのか不安になって、また犯罪をする。
犯罪している時の自分が受け入れられているのは、自分が受け入れられていると感じる。
しかし、犯罪していない時に受け入れられても、犯罪をしていない自分が受け入れられているだけで、犯罪をしている自分は受け入れられないのではないかと不安になって、犯罪をして試し行為をする。
延々とこの繰り返しをする心理状態に陥っている。

犯罪事務所は、元々は、奇形児や障碍者を見せ物にしているから、こういう試し行為をする犯罪者を見せ物にする。
最近は、奇人変人を見せ物にしてはいけないから、こういう犯罪気質の精神障碍者を見せ物にしてはいけないのだろう。取り締まりが強化されたのも、それが理由だろう。

サタン側は、こういう世間体に毒された人間を大量生産する。

異常な擁護をする人は、犯罪芸人が改心するのはどうでもよくて、利用したいだけなのだろう。
犯罪芸人は、今までは世間に受け入れられてきたというけど、世間の人は成長するし、寿命で入れ替わる。
変な老人が庇っていただけで、その変な老人が死んだから、もう守られなくなった。

2、差別心
あの事務所は教育事業で税金を貰っているから、女性セレクト指示書がどれだけダメか、子供たちの前で朗読してみれば判るだろう。
税金で教育事業をやっている時点で、普通の人よりも生き方を正す義務がある。
プロの水商売の女を相手に要求するなら、まだマシだけど。それでも婚外性交はダメだけど。
女を差別したり、娼婦を職業差別しているから、こういう発想になるのだろう。大した事がないとか、タダの趣味と擁護する人間も、犯罪芸人と同類。

女を差別していると、女は我慢しなくて良い事まで我慢させる。
聖書では男同士の性交はダメでも女同士の性交は不問なのに、偽装キリスト教団のカトリックは女を差別しているから禁止にする。
化粧やファッションもある程度は良いのに我慢させる。
この犯罪芸人と偽装キリスト教団のカトリック・プロテスタント・ギリシャ正教は同類である。
女はこうあるべきと勝手に決めつける。
聖書では禁止にしていない事まで禁止にする。
聖書で禁止にされていないリストは前に書いた。

カトリックなどは、2000年も嘘を吐き続けた。なぜなら、カトリックはサタンの手先の偽装キリスト教団だから、人々を騙して地獄へ道連れにするのが目的だからだ。
カトリックは「2000年間、ウソを吐いた事になる」ではなくて「2000年間、ウソを吐き続けた」が正確である。
偽装キリスト教団は、守っても意味のないルールを守らせて、満足させて、それ以上は考えないように洗脳する。
偽装キリスト教団は、守ると逆に神が怒るルールを守らせる。
差別しているのが判らないように差別するように仕向けている。

犯罪芸人の欲望は思うのは良いけど、他人に実行するのはダメ。
ただし聖書は人妻に対する情欲だけは、思うだけでもアウトだけど。
殺人だって思うのは良くても実行するのはダメだろう。
ましてや、逆らえない後輩に強制しているのだから。

事務所が教育事業で税金を貰っているのに、自分の行動を改めないのは、事務所に対する裏切り行為だから、事務所はタレントを訴訟できる。
組織に所属するとは、そういう事だ。会社を私物化か何かとゴッチャにしているのではないだろうか。
バレなければ良いとか、揉み消せば良いとか、そういう問題ではない。そんな考えだから、改めなかったのだろう。バレてもタダの趣味で押し通せば済むと思っているから、改めなかったのだろう。

昔の事だから赦されるわけもなく、何百年も前から赦されない悪行だ。
世間が勝手に良し悪しを決めるから、世間を騙せばいいとなるため、犯罪が発生する。
昔の権力者が勝手に無罪にしていただけ。
その権力者が死ねば、さかのぼって懲罰される。
権力者の傘の下に入るという事は、権力者が死ねば保護はなくなる人生を覚悟するという事だ。

女に対する差別心があると、こういう問題で、こういう切り口で切り込めないのだろう。
ゴシップ扱いして孤高を気取って逃げる。

犯罪芸人とカトリックの違いは、権力が有るか無いかの違いしかない。

偽装キリスト教団は、人々に悪魔崇拝をさせるために、悪魔崇拝だと気付かないように偽装している。
悪魔崇拝のリストは前に書いた。

3、来世
昨日の「来世はザコ役」の追加。

多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
ある者は永遠の生命に入り
ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。

ダニエル書 12章2節 新共同訳

人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

マタイ福音書 12章32節 新共同訳

「ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」と書いてあるところの「ある者」とは、背教者の事で、地獄へ落ちる者の事だ。
いったい、誰が地獄へ落ちた「ある者」「背教者」を侮辱して憎むのだろうか。
恥と憎悪の的になるというのは、誰かが「ある者」「背教者」を恥ずかしい存在だと侮辱して、憎しみの目で見るという事だ。
いったい、誰が地獄へ落ちた「ある者」「背教者」を侮辱して憎むのだろうか。
仮に俺が天国へ入ったと仮定したら、地獄へ落ちた奴を侮辱したり憎むだろうか。
どうでもいいと思うけど。
崖から落ちる前なら面白がって見るけど、崖から落ちて肉片になった奴なんか、どうでもいいと思う。
肉片になった奴なんか、その辺の車に轢き殺された動物の死骸みたいなものだから、そんな死骸をイチイチ憎むだろうか。
自分が地獄へ落ちたと仮定したら、同じように地獄へ落ちた人間を侮辱と憎しみで見る余裕があるだろうか。
地獄へ落ちた背教者を侮辱するのは誰の視点なのかという、この辺りの感覚が、「この世と後の世でも赦されない」という同じ刑罰になるのが何となく納得がいかない。
俺が勝手に納得できないだけだから、他の人は納得できるのだろう。
背教者の「ある者」が永久に転生先で「やられ役」「憎まれ役」を続けるなら、転生した信者の活躍で「恥と憎悪の的」になるのは、この聖書箇所のつじつまが合うから納得できるけど、俺が勝手に思っているだけ。
悪人は、永遠に焼かれるぐらいなら、やられ役になった方が幸せだと感じられるのだろうか。

無宗教者が改心するには、諭すだけで効果があるのだろうか。
相手の反発心を利用して、挑発するような言い方で誘導する方法もあるのではないか。
信仰生活で幸せに成った事を強調するのも効果があるのではないか。
俺は、毒親と縁が切れて、使える金が9倍に増えた。
色々と人々が立ち帰る方法を考えてるけど、エゼキエル書のように警告するだけが無難か。

4、罪
他人に対して罪を犯す事は、神に対して罪を犯す事にもなるから、相手と神の両方に謝罪して、二度と罪を犯さない生き方をする必要がある。

罪を犯して赦してもらったとで、また罪を犯したら、赦されるか。
多分、同じ信者が相手の罪なら赦されると思う。
他人の自分に対する加害は、何回でも赦してあげなさいと神は言っている。7の70倍を赦すように言っている。

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

マタイ福音書 18章21節22節 新共同訳

自分に対する加害は、490回ではなく、無限に赦すように言っている。
7の完全数字の70倍だから、無限の意味。

神の存在に気付く前の罪は、神に立ち帰って反省すれば赦される。
しかし、神の存在に気付いた後に、再び犯した「神に対する罪」は、赦されない。

汚れた霊が戻って来る
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。
そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。
そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」

ルカ福音書 11章24節から26節 新共同訳

「穢れた霊」とは、サタンの事。
「人から出ていく」と「出てきた我が家に戻ろう」というのは、人の心へ戻ろうとする事。
「戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた」とは、サタンにとって住み心地の良い状態に悪化していたという意味。
そして、「出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの例を連れてきて」だから、前よりも悪い状態になる。
だから、一度でも神に立ち帰ってサタンが「人から出ていく」のに、また神に対する何らかの罪を犯したら、前よりも悪い状態になる。

神に対する罪は上のようなものだけど、同じ信者への罪はどうなるのか。
同じ信者への加害は、謝罪すれば赦される。程度問題だけど。

信者ではない者への加害は赦されるかどうかだけど、そもそも、信者は「信者ではない者」に対して、挨拶しないし、自宅へ招かないから、加害被害の関係になる以前に、知り合いになる事すら難しい。
突発的な加害被害になる事はあるけど、そういう突発的なモノだと、たいていは誰でも赦すと思う。
信者なら、信者ではない者から加害されても、赦す。

5、モーゼと罪の定義
モーセが聖書で罪の定義を明文化したのは、親が子へ罪の定義を言い伝えしなくなったのだろうか。
モーセ以前は、親が子供に罪の定義を教えていたのだろう。
言い伝えをしなくなった理由を聖書から読めば判るかもしれない。
聖書の通読は6回目だけど、何が原因かあまり思いつかない。
40年間の荒野の放浪が原因だろうか。
エジプトの過酷な労働が原因で、教える余裕がなくなったのだろうか。
それでも数年だから、エジプトを脱出したら言い伝えができそうなものだけど。
それとも、親から子へ伝える言い伝えだと、家庭ごとに全然、違っているから、家庭と家庭の間で齟齬が生じるのだろうか。
もしくは、国家を作るようになったから、聖書のように全体へ教えるモノが必要になったのだろうか。
モーセが生きている時は、モーセが争い事を裁判していたけど、モーセが死んだ後にも同じように裁けるように、モーセ五書の聖書を残したのか。
そうだとすると、モーセが指導者になる直前ぐらいから、親から子へ言い伝えをしなくなったと考えられる。
人々がエジプトの悪習に染まってしまったから、言い伝えがなくなったのだろうか。
そういえば、聖書では、神が「あなた方が持っている異教の神々を燃やしなさい」という文言があったような。邪教の悪習に染まっても、一斉に燃やせば赦されるのだろうか。

6、裁判
裁判は真実を明らかにするモノではない。
三権分立で、権力を三つに分けて、互いに牽制させ合っているだけだから、これでは真実は明らかにならない。
三つ巴の牽制で何かの拍子で真実が明らかになる事がわずかにあるけど、それは副産物であって、目的ではない。
そもそも、真実は、真実の神に立ち帰った信者だけが判るモノだ。

7、貢献
自分が貢献していると自慢している人間は、確実に貢献していない。
他人が貢献していないと表立って侮辱しているなら、相手を衆目で侮辱するなら、その人は貢献していない。
俺も虚弱体質て社会貢献していないから、割と言う。

貢献できている人は、逆恨みが怖いから自慢しない。
貢献できている人は、そこまで頭が回るから貢献する能力を持つ。
貢献できている人は、貢献する力のない弱者を侮辱しない。
本当に強い者は、弱者に優しいモノだ。
俺は虚弱体質だから割と言う。

8、奴隷
「考えないと、戦わないと、これから日本人が奴隷になる」と言っている人が居るけど、今が既にサタンの奴隷なのが判らないのだろうか。
何で今は自由だと思っているのだろうか。
日本のためとか日本人のためとか、そういう国家主義的な考え方が、既に奴隷の発想である。
全ての国はサタンの支配下なのだから、国のため、国民のために働くと、確実にサタンの奴隷に落ちぶれる。

そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。

ルカ福音書 4章6節 新共同訳

国家主義者は、サタン側に対抗しているように見えて、実際はサタン側に服従しているのである。

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