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5年前FBで坂口恭平について綴った文章

いつか坂口恭平に会えますように

4、5年前、まだぼくが路上生活者関連の活動を熱心にしていた頃、人から「やそらくんって坂口恭平に似てるよね」と言われた。当時、坂口恭平に関する情報として聞いたのは、「早稲田卒で躁うつで、路上生活者に関心がある」ということ。

もっとも当時は、「ふ~~ん…」ってな感じで、避けてたんですけどね。これは人から指摘されたことなのだが、どうもぼくには「自分と同じようなニオイ」がするモノほど、避けるきらいがあるようだ。

卒論製作にあたって、「当事者研究」を標榜する著作を片っ端から読まなくては、と思っていた時に、医学書院の『坂口恭平躁鬱日記』が目についた。避けてはいたけど、「これも何かの縁だ…!」と思って、Amazonでポチッた。

読み始めてみると、大変おもしろかった。参考文献にはしなかったけど、あの頃読んだ本の中で一番おもしろかったような気がする。「坂口恭平」と、彼を構成する要素としての周囲の関係する環境や人びとに惹かれた。なにより、「良い家族」に囲まれ、子どもたちとの遊びを楽しんでいる彼に猛烈に嫉妬した。

あれから1年ほどが経ち、最近立て続けに坂口恭平の著作を読んだ。『TOKYO0円ハウス0円生活』、『現実脱出論』、『独立国家のつくりかた』。

『TOKYO0円ハウス0円生活』は、墨田川のブルーシート群に暮らす鈴木さんに密着したフィールドワークの様子を描いたものだ。これを読んで感じたのは、ぼくと坂口恭平とでは、路上生活者にたいする見方や構えがまったく異なるということだった。

ぼくが当時、路上生活者に関わっていた理由。

それはたぶん、そこに〈自分〉を見ていたからだ。「不登校状態の時、父親に勘当されていたらああなっていたかもしれない」。あるいは、「このまま社会不適合者でいると、ああなってしまうかもしれない」。そういう“恐怖”が根っこにあったから、その“恐怖”の根っこを確かめるように路上生活者に関わっていたように今は感じられる。

坂口恭平は、既製品の画一化されたマンション等に高い金を払って住むのではなく、自分に必要なだけの空間を自らの手で、しかもそのために必要な材料のほとんどを路上で拾って生きるという路上生活者たちの“生き様”に惚れ込んだようだ。それは、彼がぼんやりと思い描いてきた空間や住居のあり方、ひいてはあるべき人の生き方なのではないかと感じ、本文中では、鈴木さんという0円ハウスの主とのやり取りを通して、鈴木さんの生き方や生活習慣、考え方、やりとりなどが詳細に紹介されていた。

ぼくには、「路上の友だち」にブンさんという人がいる。彼は、初対面の時、路上生活は「俺が好きでやっているアウトドア」だとか、「新宿駅周辺の土地は全部俺のモンだけど、しょうがねえからみんなに無料で貸してやってるんだ」とのたまった。そんな彼の考え方を羨ましく思い惹かれたもんだから、それで関係がゆるゆると続いている、なんていう経験がぼくにもある。

だから、坂口恭平の感覚はわからないでもない。

次に読んだのは、『現実脱出論』ぼくは次の文章を読んで、サイゼリヤで涙をこぼしそうになるほど感動した。

「現実を見つつも、もう一つ別の空間を見つけ出し、自らの思考を切り接ぎしないまま、まっすぐ歩いていく」(坂口 2014: 27)

うまく言えないのですが、「こいつ本物や…!」とか、「あ~仲間や…!」と、サイゼで一人勝手に盛り上がった。

この盛り上がりは、『坂口恭平躁鬱日記』を読んでぼくが好きになっていた「坂口恭平」という人物が、熊谷晋一郎編著(2017)の『みんなの当事者研究』に寄稿させられている様子を見て、熊谷たちの構想する「当事者研究」に絡めとられそうになっていたことに対する強い違和感を持っていたぼくだったからこそのものだったのかもしれない。

「現実を見つつも、もう一つ別の空間を見つけ出」すとは、「目の前にある世界の中から、誰も気づいていない空間を見つけ出す」(同上: 23)ことだ。

あるいは、「自らの思考を切り接ぎしないまま、まっすぐ歩いていく」ためには、「空間をつくる」(同上: 25)必要が出てくるかもしれない。そして、「新しい空間をつくるということは、(中略)固まり、変容することがないと誰もが了解してしまった現実という空間に揺さぶりをかけて、見えない振動を起こし、バネ入りのビックリ箱のように新しい空間を飛び出させる」(同上: 25)ということだ。

この本は、「客観的に見ることが困難な現実を観察するために、現実の中に潜んでいるもう一つ別の空間の可能性を見つけ出す行為」(同上: 28)としての『現実脱出論』について書かれている。

最後に『独立国家のつくりかた』だ。この本についてもたくさん話したいポイントはあるのだが、本文中で、坂口恭平がレヴィ・ストロースの『野生の思考』、カントの『啓蒙とは何か』について軽く触れていて、第2章パブリックとプライベートのあいだで公私の境界について考察していたのがとても嬉しかった。これ、最近のぼくの思考の流れにすごく近いのです!

ざっくりまとめると、坂口恭平は、ブルーシート群の住人の暮らしの知恵や生き様に感化され、その人たちの“生き様”をぼくたちに提示する。さらに、そこで倣った生き方に従い、シンプルに考え行動した結果として、3・11の際、政府はまったく信用できないと感じ、自分で独立国家を創ってしまう。

坂口恭平にとって新政府を立ち上げるということは、「固まり、変容することがないと誰もが了解してしまった現実という空間に揺さぶりをかけて、見えない振動を起こし、バネ入りのビックリ箱のように新しい空間を飛び出させる」(坂口 2014: 25)ことに他ならない。

坂口恭平は、福島第一原発で放射能が垂れ流しになっている事実を国民に公表しなかった政府に大きな不信を抱いた。しかし、「文句ばっかり言っていても仕方がない。僕たちは生きるために具体的に行動していくしか方法はない」(坂口 2012: 50)のだから。

だからこそ、「現実を見つつも、もう一つ別の空間を見つけ出し、自らの思考を切り接ぎしないまま、まっすぐ歩いていく」(坂口 2014: 27)、まさにそのために、坂口は新政府を立ち上げたのである。彼の思考はとてもシンプルだ。それは、坂口が「0円ハウスの住人」(坂口 2012: 30)から学んだ生き方でもある。「彼らから学んだことはもっとどんどん社会で実践すればいいんだ」(同上: 57)。

そんな坂口恭平のことが好きなぼくだがひとつ心配なことがある。それは、『坂口恭平躁鬱日記』で、彼の主治医が指摘しているように、坂口恭平はまさに、「躁鬱の波を利用して仕事をしてお金を稼いでいる」(坂口 2013: 73)点だ。

ぼくは近い将来、「躁うつ」から降りる気でいるが、それを使って表現して生きていくってさ~…。なんか、「応援する」のがすこし気後れする。本人が進んで選んでる面が強いのはわかるのだけど…、こちらとしてはジレンマだ。

それでも、いや、だからこそ、人や何かと出会うとしたら、「偶然に出会うことにしか興味がない」(同上: 34)と言ってのける坂口恭平といつか何かの機会に会えたらな~とぼくは空想する。考えている方向性には「自分と同じようなニオイ」を感じられる訳だし、何の社会的実績もないぼくですが、このままぼくなりに突き詰めていったら会えそうな気がしている。都合のいい脳ミソだ(笑)

けど坂口恭平も『坂口恭平躁鬱日記』の中でこう言っている。「会えない人と会うために僕は書けばいいのである。書くとは出会うことである」(同上: 99)。

そのためにも、『友だち地獄─「空気を読む」世代のサバイバル』の第二章、高野悦子と南条あやの日記について考察したリストカット少女の「痛み」の系譜を読んで考えさせられたのだが、早くこの公私入り交じった公開日記をより広い場所で公開できるようになったほうがええんかな~、などと思いつつ。

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