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江戸をぶらつこう(両国)

( 両 国 )
 花柳界、芝居など粋な商売の連中が居った所が両国ですが、橋詰に大きな火除け地ができました。これは、火災時類焼・延焼を避けるためのもので、当時は避難所でもありました。ここを「両国広小路」と呼んでおりました。
 明暦の大火の死者を弔う興行相撲が本所回向院で行われ、これが常設化され如何わしい商売もはりねずみの毛のようにたくさん寄り集まり、本所東両国は非常に賑やかに栄えました。
 明治に入って二十四年(一八九四)に錦糸町と佐倉間に総武本線ができ、これが東両国まで延び始発駅となりその駅名が両国となりました。さらに明治四十二年(一九〇九)に回向院の隣地にドーム型の国技館が完成。双葉山の六十九連勝は、ここ国技館で成されました。しかし戦後、国技館は進駐軍に接収され、メモリアルホールと改称され進駐軍の行事に使われておりました。いたしかたなく相撲興行は浜町公園に仮設小屋を建てて行うようになり、東両国も寂れていきます。

 経営に苦しむ相撲協会(戦前は大日本相撲協会といった)は、接収解除で戻ってきた国技館を(株)日本大学に売却しました。日本大学では日大講堂として入学式や卒業式として使っていましたが、今は在りません。

 相撲協会は、蔵前を常設国技館として三十余年に亘り、そこで頑張りました。名門高砂部屋は前田山の死後、相続問題が拗(こじ)れ東両国を去って、浅草柳橋に部屋を建てました。
 二所ノ関部屋から分かれた花篭部屋も初代若の花を連れて阿佐ヶ谷に部屋を興しました。
 このように分家したり独立した親方衆は東両国から離れ、別の土地に部屋をかまえるようになったのです。いまは、山梨県にも相撲部屋があります。
 衰退を辿った相撲協会に救世主が現れました。栃錦と若の花です。昭和三十年代のことです。当時読売新聞の記者(嘱託?)に彦山光三という人がおりまして、八百長らしいのをとがめておりましたが、この二人について何も言わなかったのも不思議でした。

 栃錦が年寄り春日野として理事長時代に、時の国鉄総裁高木文雄氏の尽力で両国駅の貨物用地の払い下げを受け、東京都下水道局が蔵前国技館を買い取ってくれることになり、これで力を得た協会は新国技館を建設しました。

 屋根の銅板は墨田区のブリキ板金職人が手分けして葺いたということです。悲願でありました大相撲発祥の地へ戻れて日本相撲協会の戦後はようやく終わったわけです。
 これに嫌気をさしたのか、日本橋両国は東日本橋と名を変えてしまう。東両国は晴れて墨田区両国となったのであります。
 

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