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アイデンティティーと小説について少し考えてみた。

 アイデンティティーと小説はどのような関係にあるのか。ここでは、僕が出会った本から抜粋して考えて行きたいと思う。

「アイデンティティーという外来語を日本文学の現場の言葉に置き換えると、次のようにその定義がなお生きているはずなのだから。われわれは(自分は)、どこから来たのか? どこへ行くか? そしいま、どこにいるか?」

大江健三郎『小説の経験』p309 朝日文芸文庫1998年

 ここでは、日本文学におけるアイデンティティーという定義を明確に大江健三郎はしている。つまり「われわれは(自分は)、どこから来たのか?どこへ行くのか? そしていま、どこいるか?」である

「私は何処から来て何処へ向かうのか?」を考える者は、

島田雅彦『君が異端だった頃』p235集英社2019年

 島田雅彦が言う「私は何処から来て何処へ向かうのか?」は大江健三郎が定義した、「われわれは(自分は)、どこから来たのか? どこへ行くか? そしていま、どこへいるか?」とアイデンティティーの定義と同じことを言っていると考えられるだろう。つまり、「アイデンティティー」を考える者は、小説においてどこからきて、どこへいき、どこへいるかを考えることがアイデンティティーの定義と言える。
 また、大江健三郎は、このアイデンティティーの問いかけを 

 今日の日本列島の先端風俗にかさねて――こまかな生活観察と、明るいレンズの解像力が日常に密着するほど、文化論的な抽象性をたかめるという、めずらしい個性――展開しているのが、青野聰の長編『風の交遊録』(「群像」)である。

大江健三郎『小説の経験』p310 朝日文芸文庫1998年

 の一例を挙げたり、

 しかし開高氏は全集に未完のままおさめられている『花終わる闇』を、長期にわたって書きあぐねたのだった。モデルもディテイルのストックも、しっかりし、かつ豊かであったにかかわらず。そしてその理由は、才能と経験の広さにおいて同時代をぬきんでていた開高健が長編三部作完成させようとして、やはりアイデンティティーの魔にとりつかれたからだ、というほにない。残された未定稿には、人間観の完熟と細部の輝きこそまぎれもないが、作家自身とって、自分はどこから来たか、どこへ行くか、いまどこへいるのか、という切迫したモティーフを表現しているとは感じられなかったのであるだろう。そこで戦線を縮小しての成功作が、『珠玉』として残されたのだったのだろう。

大江健三郎『小説の経験』p310p311 朝日文芸文庫1998年

 また、開高健も小説において大江健三郎曰わくアイデンティティーを書こうとしたのであり、その実力を持ってしても長編3部作の『花終わる闇』のなかで表現しきれず未完に終わってしまったとしている。それも「アイデンティティーの魔にとりつかれてしまったからだ」としている。

 アイデンティティーと小説について今回僕が、興味があったので調べてみたが、難解なテーマであることが浮き彫りになった。大江健三郎の『小説の経験』は難しく読解出来ていない部分が多いと思う。それを考慮してもアイデンティティーを小説で表現するのは難しいことが分かった。

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