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ダンディ上司とお嬢さん

もう10年以上前のことだろうか。
勤めていた会社の当時の上司はとてもダンディな人で、グレイヘアを七三にきっちりと櫛を入れ、いつもスリーピースのスーツをバリッと着こなしていた。
そんなダンディ上司からある日、ランチに誘われた。
お友達も一緒でいいよ、と言うので、当時仲の良かった同僚の女性と2人でお相伴に預かることにした。
当時の勤め先は御茶ノ水。
御茶ノ水駅周辺はチェーン店ばかりであまりいいお店はないが(喫茶 穂高だけは別だが)、坂を下ると神保町。
神保町といえば名店の多い地域だ。
老舗の洋食屋さんや冷やし中華発祥の店と言われる「揚子江菜館」、
いま流行りの純喫茶。「さぼうる」「ミロンガ・ヌオーバ」「ラドリオ」など、今となっては並ばないとお店に入れなくなってしまい残念に思うが、老舗の喫茶店が軒を連ねる。
もちろんカレーのメッカであることは言うまでもない。

ダンディ上司、どこに連れて行ってくれるのか。
颯爽と坂を下っていく。やっぱり神保町方面か。
私と友人もワクワクしながら坂道を下る。
山の上ホテルに通じる坂道を横目に、明治大学も通り過ぎ、こじんまりとした店構えのエチオピア本店も通り過ぎた。
坂道を下りきって右に曲がる。
「じゃあ、ここに入ろうか」


私と友人は思わず顔を見合わせた。
「!!」「??」「……」
その時の衝撃と言ったら、今思い出しても言葉にならない。

なんとそこは「名代 富士そば」だったのだ。
名前は同じでも実は創業百年を超える粋な蕎麦屋、なんていうことはまったくなく、サラリーマンの、いや庶民の強い味方、立ち食いそばの、あの「名代 富士そば」だった。
大きな落胆はおくびにも出さず、
友人は何を頼んだか思い出せないが、私は冷たいお蕎麦が好きなので、冷やしきつねそばか何かを頼んだと思う。

ダンディ上司はお蕎麦をすすりながら、
お嬢さんたちは、普段こんなところ来たことないでしょ?」
「なかなか入るのに勇気がいるだろうから、いちど連れてきてあげようと思ってね」
「そ、そうですね。やっぱり入りづらいですよね、なかなか…。ねえー」
なんて友人と顔を合わせて頷いた。
「結構、美味しいでしょう?」
「そうですね、美味しいですねえ」
「立ち食いそば屋さんって意外と美味しいんですねー」
「今まで入ったことなかったから知らなかったです」
それを聞いてダンディ上司は満足げに微笑んだ。

その後は名前は忘れたが、ダンディ上司が懇意にしているママさんがいる地下の薄暗い喫茶店に連れて行ってもらってコーヒーを飲んだ。


イヤイヤイヤイヤ。
私も友人も、立ち食いそばどころか、牛丼屋でもラーメン屋でも全然一人で入れるわ。さすがに一人焼肉は躊躇するが、これも最近はそんなお店ができてクリアできそう。

それにしてもまさか立ち食いそばとはねえ。ガッカリだわ、と思ったのは少なからず事実なのだが、でもすぐに思い直した。
だって、当時もう結構な大人になっていた私たちを「お嬢さん」と呼び、一人ごはんなんて到底できないだろうと思って誘ってくださったのだ。
女性が一人で立ち食いそばや丼めしをかき込むなんて想像もできなかったのだろう。
幻想といえば幻想なのかもしれないが、そんな世界観をお持ちの上司はやっぱり正真正銘のダンディな方だったな、と懐かしく思う。

※写真は、最近私がフィルムカメラ(contax T2)で撮った神保町の風景です。


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