いっすーくるま

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「いっすーくるま」です。独立へのスタート編②

昭和55年4月よりコックとして現場に入った私は、独立へのスタートが、1年も遅れていたため、それを取り戻さなけれなりません。新しい料理、調理法などを知ると、その場で、また、その合間に、必ずメモに取って復讐する習慣を身に付けました。月日が経つと、サラダ場での担当も、仕入れから、仕込み、タルタルソース、ステーキジャポネ用のソースの製作と仕事も増えていきました。ある日、私は、ランチに使うサイドサラダを60個造って冷蔵庫へ保存して置きました。午前10時過ぎにチーフが、調理場へ顔を見せた

    • 「いっすーくるま」です。独立へのスタート編①

      昭和55年4月1日、私は、武蔵小杉にある結婚式場へ向かっていました。この日が、入社式だったのです。100人以上の新入社員が居たと思います。それには、理由がありました。それは、明年に、結婚式場からホテルへと発展するためでした。川崎と厚木、八王子の支店が、ホテルへと規模を拡大するのです。そのための従業員の拡充でした。入社式が終わると入社手続を行い、午後からは、新入社員研修の開始でした。 会社の沿革、社会人として心構え、サービス業の基本など初めて学ぶ知識ばかりで、研修前半は、本店の

      • 旅番組 自由アリ場(フリーアリバ) 第1回放送シナリオ④

        ミ ッ チ ー →私は、天ざる蕎麦を一つです。 店      員→はい、天ぷら蕎麦1つと天ざる蕎麦1つで良ろしいですね。 (注文を書き込むと店員は、調理場へ向かって声をかける) いっすーくるま→ところでミッチー、俺が何故両足無くしたか知りたいだろ。 ミ ッ チ ー →うん、でも青春時代の苦い思い出を、話すのは辛いでしょ。 いっすーくるま→全然、その青春時代のおかげで、命の尊さを知り、生きてる事に感謝できる俺に成れたんだよ。最高だね。イヤッホー! ミ ッ チ ー →苦しかった事

        • 旅番組 自由アリ場(フリーアリバ) 第1回放送シナリオ③

          (アーケード街を左手に見ながら、二人は、真っ直ぐ進んでいく) いっすーくるま→ミッチー、今度も左手に・・モールという商店街があるんだけど、今度は、この道路を右側へどうろ。イヤッホー! ミ ッ チ ー →あ~あ、3回目じゃ、皆もう飽きてるがらー。(方言で) (そのまま直進していくと右手に、美容室が見えて来た) いっすーくるま→さ、ミッチー、見てくれよ。素敵な美容室だろ。 ミ ッ チ ー →わあ、本当だ。段差も無くゆるい登坂になってる。これなら車椅子でも入って行けるね。 いっすー

        「いっすーくるま」です。独立へのスタート編②

          旅番組 自由アリ場(フリーアリバ) 第1回放送シナリオ②

          (JR・・・線、・・・駅の改札口で、車椅子に乗ったいっすーくるまが、1人の女性を待っている。) いっすーくるま→こんにちは、いっすーくるまです。平成18年にバリアフー法が施行されてから公共施設の段差にスロープや駅にエレベーターなどが設置され、自分たち車椅子の人間が生活しやすい環境へと変わって来ました。しかし、人口の多い都会に比べ人口の少ない地方では、まだまだ厳しい現実があります。ところが、健気にもバリアフリー化している個人経営の病院、食堂、お店、小さな工場などもあります。この

          旅番組 自由アリ場(フリーアリバ) 第1回放送シナリオ②

          今まで無かった全く新しい旅番組①

          この番組のタイトルは、「自由(フリー)アリ場(バ)」(フリーアリバ)と言います。ロゴタイプもデザイン済です。 平成18年12月20日バリアフリー法が、施行されると公共施設を中心に街は、徐々に姿を変えていきました。段差にはスロープが設置され、鉄道の駅のホームには、エレベーターが設置されるなど障害者が電車通勤する事が可能になったのです。そして、徐々に人口の多い都会から地方へと、バリアフリー化が浸透していきました。 この番組を企画した私(いっすーくるま)が、昭和55年、20才の時の

          今まで無かった全く新しい旅番組①

          「いっすーくるま」です。単車の事故編最終章⑯

          新年を迎え、調理師専門学校の授業と実習が開始されましたが、卒業へ向かっての学科、実習、卒業作品展への出品料理に合格しなければ、卒業など出来ません。私は、最後の作品を「テンダーロインステーキ イン ハワイ」とのタイトルで、テンダーロインステーキを銀皿へハワイ風に盛り付けたのです。学科も実習も、作品展の料理も合格点を取得出来たのでした。 1月4日に、親しき彼女へ4年振りに告白してから、1カ月後の2月4日だったと記憶します。彼女から我が家に電話が入ったのです。開口一番、彼女は、私に

          「いっすーくるま」です。単車の事故編最終章⑯

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑮

          そんな時、友人から意見されたのです。 「男と女の間で、親しければ親しいほど、それは、恋人同士になるんじゃないか」 「えっ!・・・・・・」 私は、この友人の言葉に、高校1年の野球部での想いを蘇らせて貰ったのです。確か、自分は、彼女を見た瞬間に、一目惚れしたはずだった。(親しき男女は、恋人同士なのか)そんな想いを心の中で、何度も、何度も繰り返しました。復学してからの年末年始、私は、地元の友人4人と、車で江の島へ初日の出を見に行こうと計画を立てました。その時、高校からの親しき彼女た

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑮

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑭

          退院の知らせに、沢山の友人・知人が喜んでくれたのです。自らも、そんな歓びに触れ嬉しくなってしまいました。歓喜というのは、連鎖していくのですね。「全快祝いをやるからよ」とか「全快祝いやろうぜ」との言葉が聞かれましたが、その知らせは、中々自分の所へは、届きませんでした。オートバイを運転していた横須賀の友人も、8月に退院して9月からの復学のために準備をしていました。彼は、右足の膝下から切断され、義足を装着していたので、横須賀からの通学は無理と調理師学校の近くにアパートを借りて、通学

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑭

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑬

          医師は、これくらいの曲がりなら、しっかり、歩けるようになると断言してくれましたが、信じられませんでした。医師は、「再手術をして、大腿骨の内側にもプレートを入れましょう」と言いましたが。私のとっては、再々手術です。医師に向かって、私は、力なく「お願いします」と答えていました。直ぐに、また2階の2号室へ入院して、1週間後の手術を待ちました。気が付くと「栄光の岸壁」(新田次郎著)の棒状の足の先から血を流しながら、登山するため地獄の訓練を続ける章を、繰り返し読んでいました。 (よし、

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑬

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑫

          昭和53年8月13日の交通事故から4カ月が過ぎた12月には、両手と右足のギブスが、取り外されました。ギブスが巻かれていた両手と右足は、筋肉が無くなり骨と皮状態でした。それを見た瞬間、こんな状態で手が使えるようになるのか?歩けるようになるのか?不安で一杯になってしまいました。ところが、また、痛い思いをしながら、リハビリを始めると12月末には、松葉杖を使って歩行出来るようになってました。そんな中、左手の甲に打ち込まれていた9本の釘が、頭を出して来たのです。人間の身体の凄さと言うか

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑫

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑪

          全ての人間は、この7番目の自我を根本として生活してると思いました。ところが、ユングは、さらに、もう一重深層へ目を向けていき、8番目の深層意識を新発見したのです。その意識は、「集合」と名付けられました。 ●集合→自ら認識できない深層心理(先祖・親から染色体・DNAなどによって受け継いだ傾向性が、集合に全て含まれているのです、(どの親から生まれ、何処で生まれ、どんな仕事をして、誰と結婚し、子供は何人、何処の国で生まれ、どんな地域で暮らすか、短命か、長命か、何時死ぬのか、などなど全

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑪

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑩

          「栄光の岸壁」(新田次郎著)。この本は、新田次郎氏が、実在した登山家を書き現したノンフィクションであると知りました。長い文章です。それなりの決意を持って読み始めましたが、読み進むに従って、私は、このノンフィクションの文字へ、のめり込んで行ったのです。最短で、あらすじを書きます。 「少年時代、友人と2人で冬山登山を決行し遭難します。2人とも意識を失いますが、主人公は、病院のベッドの上で意識を取り戻します。友人が亡くなった事、自らの両足の甲の部分が、切断されて失っている事を知らさ

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑩

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑨

          手術が終わると、両手は肘から手の甲までガッチリとギブスで固められてしまいました。前回の足の手術では、3日間。眠り続けてしまい言い忘れましたが、右足は付け根から足首までギブスで固まってました。ですから、ベッドの移動にも、悲鳴を轟かせることなどありません。ストレッチャーで、2号室に運ばれ、ベッドに移された時には、「フウー」と大きな溜息を洩らして居りました。それは、この2か月間の出来事があまりにも衝撃的過ぎて、苦しんだり、申し訳なかったり、恥ずかしかったり、情けなかったり、落ち込ん

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑨

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑧

          手術に、どれ程の時間を要したのか分かりませんが、私は、身体を揺さぶり起こされました。目を開けると医師の声が聞こえて来たのです。 「今、手術が終わりましたよ」 「はあ、ありがとうございます」ボーとする意識で答えると今度は、手術後のレントゲン写真を目の前に差し出されました。見ると、1本に整形された大腿骨の右側に金属のフレートが当てられ、骨折部分の上下に2本ずつボルトが締め込まれ、合計4本のボルトで大腿骨を固定していました。それを見た瞬間に、(あっ、大腿骨の左側に4本のボルトの先が

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑧

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑦

          高速道路を走り、街中を走りながら、あまり揺れることなくロングワゴン車は、地元の病院へと到着しました。この道中、電車の踏切を渡る時の振動で、若干の痛みを感じましたが、車内で悲鳴を発することはありませんでした。地元の病院で、母の知る医師と看護師さんに迎えられた私は、病院2階の2号室へ運ばれましたが、個室になっていて戸塚の病院と比べると1人で、じっくり落ち着ける所でした。ストレッチャーからベッドへの移動に、悲鳴を発しましたが、ベッドへ身体が移るとホッと身体中の力が抜けてしまったので

          「いっすーくるま」です。単車の事故編⑦