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許す、ということについて私が伝えたいこと

こんにちは、まねこです。

みなさんは許せないことってありますか?
私はたくさんあります。
相手に直接ぶつけることもありますし、そっと疎遠にすることもあります。
そういうとき、よく言われるのは

「謝ってるのにどうして許さないの」

という言葉です。

今日はこの言葉についてちょっと語っていきたいと思います。

先日、珍しく息子が泣いて怒っていました。
子どもたちの花火大会の日に、息子が買ったおかしを義父が食べてしまったとのこと。
しばらく泣いて、ふてくされていました。
そこに義母が「いつまで怒ってるの!謝っているでしょ!」と追い打ちをかけていたので、私が間に入りました。
「この子は今、自分で一生懸命心の整理をしています。余計なことを言わないでいただきたい」と言いました。

このお話を聞いて、多くの人は、「そんなお菓子くらいで」と思うかもしれません。
ですが、このお菓子は息子にとって特別であることを私は理解しているつもりです。

花火大会当日、私は仕事を休むことができず、一緒に参加するママ友にお願いして一緒に連れて行ってもらうことにしていました。
「当日はおにぎりを買っていく」と聞いていたので、息子にお財布を持たせました。「1000円入れたから、おにぎりとお菓子をすきなもの買って良いよ。そのかわりちゃんと計算して、1000円で足りるようにするんだよ」と言いました。
息子に一人で買い物に行かせたことはあまりありません。
ママ友と自分の友達がいるといっても、私が不在の中で自分で選んで自分で買ったお菓子でした。ふだん息子はポテトチップスはあまり食べません。
自分が食べたかったのもあるでしょうが、その後合流した花火大会での雰囲気を見ると「みんなで食べるため」に選んだのだろう、と思われました。
(結局みんな遊びに夢中でお菓子は食べませんでしたが)

つまり、今回のお菓子を食べてしまった事件は、「お菓子がなくなった」という「モノ」の消滅だけではなく、「自分で選んで買ったお菓子がなくなった」という「コト」の消滅が含まれている点が怒りの原因であるわけです。

普段、息子は滅多に怒りません。だいたい理由を話せばわかってくれます。
長く怒っていたのは、ただ単にモノが無くなったからでないことは、明らかでした。

「君が一人で買ったものがなくなったことが悲しいんだよね」
「でも、一人で買った事実がなくなったわけではないし、お菓子自体はいつでも買いに行ける」
「ゲームでもして、もし気が晴れたらじいじのこと許してあげるといいと思うよ。じいじもすごく気にしてたよ」
と息子には伝えました。

その後、息子はゲームをしてすっかり機嫌がよくなったので、義父とも何もなかったようにふるまっていました。


さて、許す、許さない、の問題はどこにでもある問題なのですが、
許す権利・許さない権利は被害者側にある、というのが私の考え方です。加害者側や第三者が「謝っているんだから許せ!」なんていうのは、あまりにも傲慢だと思うのです。
今回、これはお菓子だったから「そんなお菓子くらいで」と思ったのかもしれませんが、そこに至るまでの背景にはちゃんと気を配るべきだと私は考えています。

これがいじめだったら?
これがパワハラだったら?
これが差別だったら?

「謝ってんだから許せよ!」で本当に済むのでしょうか。
許すも許さないも、本来、加害者側に一切の口出しする権利はないはずです。第三者であればなおさらです。

加害者側にできることは、
・謝罪すること
・対応策を考え行動で示すこと
・時間を置くこと
です。それ以外にできることはありません。
許せないのに、許させようとすることは我慢の強要であって、罪の上塗りでしかありません。
許すことと我慢することは全くの別物です。
相手が本当に許してくれているかは、相手にしかわからないことです。
もしかしたら、我慢しているかもしれないからです。
我慢、というのはいつか限界がきます。
限界がきたらその人はそっと離れていきます。
つまり、ある行動に対して相手方に発生した不利益は「相手から許されない可能性がある」ということをちゃんと考えなければならない、ということです。
このことが理解できていないと、ネットで悪口を書いて、それで訴えられたときに「ここまで大ごとになると思わなかった」なんて言い訳することになってしまうのだと思います。
「ごめん、ですめば警察はいらない」ということです。

許すか、許さないかを決めるのは被害者です。
生きていれば被害者になることもありますが、もちろん加害者になることもあります。
加害者になったとき、「謝ったんだから許してくれるはず」なんて思っていると大変な目に合うかもしれません。
だからこそ、突発的に行動せず、「自分の行動が誰にどう影響するのか」ということを意識した行動をとる必要があるのだと思います。
それは子どもたちにちゃんと教えていかないといけないし、私も意識していく必要があります。

一通り、許さない権利について話しましたが、
「じゃあ何でもかんでも許さなくていいの?」というとそうではないです。
相手を許さないということは、自分も許されないかもしれないからです。

私は間違いの多い人間です。
完璧からは程遠い。
誰かに迷惑をかけずには生きていけない存在です。

私は誰かに迷惑をかけてしまったとき、できれば許されたいです。
「謝ってんだからいいじゃん!」って私も言いたくなるかもしれません。
だから、私は許します。
私がそのうち犯してしまいそうなミスは、全て許します。解決策の提示と行動さえあれば、他に求めるものはありません。
誰もが完璧ではなく、お互い様だからです。
人を許す、ということは自分も許される、ということだと私は思います。

その上で、我慢はしないようにしています。
無理に許すことはしない。
嫌だと思った人と無理に付き合う必要はないと思います。
相手もまた同じです。
私のことが嫌だと思ったら付き合わない権利があります。

私は、母ともう長く疎遠です。
いろいろなことがありましたが、そもそも「お前なんか産まなければよかった」と幼少期からずっと言われていたので、大学進学をきっかけに一人暮らしを始めました。
何年も実家には帰っていません。
母は一度だけ謝罪しました。
私は許せませんでした。
「謝ってんのに何様なの」と言われました。親戚からも罵られました。
「大学進学費用だしてもらっているくせに」「親不孝者」と本当に多くの人から言われました。
だけど私は許せません。誰に何と言われても。

子どもが生まれたらきっと理解できる、許せる日がくる、と思っていました。
だけど、今でも母の気持ちは理解できません。
実際、ワンオペ育児で大変だったと思います。
今と違ってインターネットもなく、孤育てに近かったことも今は理解できます。
だけど、そのストレスの矛先が子どもに向かうことは無い、とここまでの育児でわかりました。
私にとって、子どもがどんなに大きくなっても、どんなふうに育っても、可愛いわが子です。
産まなければよかった、なんて一ミリも思いません。
私のところに来てくれてありがとう、という気持ちでいっぱいです。

母を許さない、ということは、私もいつか息子から許されない日がくるかもしれません。
息子に許されたい、と思ったとき、初めて母を許したいと思うかもしれません。

許す、ということは、非常にエネルギーのいることです。
そして、そのエネルギーは時間です。
私たちの時間は有限です。つまりエネルギーは限られている。

私も含め、皆さんの人生は、決して一人では作られません。
何を許し、何を許さないのか。
あなたの人生にとって、あなたが必要だ、大切にしたい、と思う人のために、あなたはエネルギーを使うべきです。
あなたを傷つけるだけの人のために、エネルギーを使う必要はありませんし、そのために心を痛める必要もありません。
許さないあなたも許してあげればいい、と私は思います。
ただ、許さない、ということを選んだのであれば、自分もまた、誰かからは許されないかもしれないことを受け入れていかなければなりません。

許す、というのはそういうことなのだと、年を重ねた今、私が思うことです。

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