見出し画像

ぴろきに救われた話



 タオルケットを盗まれた。
 思い入れのある大事なタオルケットだった。
 祖母が、結婚式の引き出物でもらったというイブサンローランのタオルケット。
 そんなものがあるのかとお思いだろうが、祖母曰く「一時期、そういうのが流行った」とのことで、現にあるのだから仕方ない。
 ともかく、私はそのイブサンローランのタオルケットが大好きで、長年愛用していた。どんなにくたくたになっても、そこは流石イブサンローラン。いつまでも品があって、肌触りが最高だった。
 私にとって寝具とはイブサンローランであり、マリリンモンローのシャネルの五番と同じくらい大切なものだった。それを、盗まれたのだ。
 その日、私は急いでいた。溜まりに溜まった洗濯物を回しに回し、胸が土瓶土瓶。いつもより多く回したおかげで、あらら寝具を干すところがちっともない。
 こんな折、頼るのは文明の力。地の利。歩いて数歩のランドリー。
 私は急いでいた。約束の時間が迫っている。
 この後の私には、国立園芸ホールで落語を見るというプログラムが待っていた。
 
 十一時には最寄りの駅にゆかねばならず、現在十時を少し過ぎたところ。
 洗い上げた寝具を抱え、駆け足でランドリーへ向かう。
 着くや、浮浪者じみたバアさんと、胡乱なジイさんが目に留まる。狭い通路を占領し、寝てるのだか起きているのだかわからない顔をしている。それなのに、目の奥はやたらギラギラと野生に充ちていて、不吉な予感がした。
 しかし、私は焦っていた。落語まで時間がない。
 バアさんとジイさんの合間をぬって、空いている乾燥機に寝具を投げ入れる。
 硬貨を四枚投下した。四十分後に乾燥完了といった次第。
 私は一度家へ戻り、猫と戯れ、お化粧を施すなどして時間を潰した。
 頃合いを見てランドリーへと戻ると、そこにはバアさんもジイさんもいなかった。
 やれやれ、人間が二人いないとなると、狭いランドリーが一層貧相に感ずるね。
 イケアのランドリー袋をヴァサヴァサさせながらそうこぼして乾燥機を見つめると、そこには虚があった。
「きょ?」
 と言った。言っても眼前には虚しかなかった。
「きょきょ?」
 と言った。言いながら、別の乾燥機をくまなく閲覧した。
 どこにもイブサンローランはなかった。
 洗濯機の中や、壊れた扉の奥、自動販売機の裏など、すべての空間という空間を血眼で探した。しかしどこもかしこも依然、虚だった。
 盗まれたという感慨がじわじわと、紙に染み込む墨滴のように広がる。
 管理会社に電話をしても、今日はサンデーだったので無機質なアナウンスが流れるだけだった。
 監視カメラに希望を抱いたが、それは埃まみれの明らかなダミーで、なんて、なんて金メッキなハリボテ野郎なんだと愕然とした。
 こうして私は、長年愛用していたイブサンローランのタオルケットを失った。わずか四十分の間の出来事だった。
 憎しみで支配された。とてもじゃないが、これから落語を聞いてアヘアヘ笑う気にはなれない。
 行くのをやめようか。否。できない。
 面倒なことで、「落語を聴こうの会」みたいなサークル的なやつに申し込んでしまったため、当日にキャンセルすると角が立つ。
 タオルケットを失って、信用までは失いたくなかった私は、当てどころのない怒りをかかえたまま国立演芸ホールの寄席へと出向いたのである。
 現在、国立園芸ホールは改装中で、落語会は紀尾井ホールにて行われた。
 富士山も望める美しいホールとは裏腹に、私は激烈に萎え萎えな心地だった。
 前座は前座噺。講談は太平記。真打が出たと思ったら、こいつなんとも辛気臭い。
 なんだか泣きたくなってくる始末。
 盗難の後、わざわざ寄席に来てまでこんな気持ちになるなんて。
 むなしい。こういう時ほどイブサンローランのタオルケットが恋しい。
 しゃくりあげたくなった時、彼は来た。
 ぴろきだ。
 禿頭に薄毛の丁髷。丸メガネにブカブカの、チェックの衣装。ウクレレをポロンポロンと爪弾いて「明るく陽気にいきましょう」なんて言っている。
 ぴろきがステージの下手から出てきたその時、負の感情一切が払拭された。
 私の頭の中にはぴろきしかいなかった。
 ぴろきは自虐的なネタを披露しながら「悲しいことの後には運がどんどんついてくる」と言った。腹鼓がポコンと鳴るたび、心が洗われた。
 私は今まで、幾度もぴろきを観たことがある。
 浅草の演芸ホールで何度観たことか。笑点やエンタの神様など、テレビでも。
  知っている。知りすぎているくらい私はぴろきを知っている。
 それなのに、今日のぴろきは違った。
 今までにないぴろきだった。
 衝撃的なぴろきだった。
 その日の私には、ぴろきが英雄として映った。
 人は心の底から絶望している時、ぴろきを観るとカタルシスを感じるのだ!
 一種のトリップ状態になった私は、ぴろきの一挙手一投足に笑い、笑い、腹が捩れた。
 確実に、ぴろきと目があったし、なんならぴろきは私のためだけにネタを披露していた。
 これには確信がある。
 なんと、この日のぴろきは代演だったのである。
 ぴろきは、マジックジェミーの代わりに急遽、今日の寄席に現れたのだ。
 これは、私のために駆けつけたようなもので、現に私は激しくぴろきに救われた。
 ぴろきが袖にはけたとき、私は身体中のエネルギーを両手に込めて「ぴろき! ありがとう! ぴろき!」と打楽器を鳴らすように拍手をした。
 私はぴろきのことをもっと知りたくなった。
 ぴろきのインタビューが載っているので、東京瓦版をすぐに購めた。
 ぴろきのユーチューブチャンネルを登録した。
 前髪をまとめて丁髷にした。
 ウクレレでぴろきのメロディーの練習をした。
 ぴろきは歌を出しているので、カラオケに行ったら『明るく陽気に、いきましょう。』を歌おうと決めた。
 弟子入りするなら「ぴろみ」と名乗ろうと決めた。
 どうやったらぴろきにお金が入るか、真剣に考えた。
 いろいろ考えたが、寄席で大入袋を渡すのが堅実だという考えに至った。
 でも、いつどのタイミングで渡せば良いのか。私のせいで場がしらけたら大変だ。出待ちは気味が悪いだろう。など「ぴろきお布施問題」を夫に相談したが鼻で笑われた。
 知れば知るほど、ぴろきは面白かった。
 私はぴろきの「ぴ」の字も知らなかった。
 こんなに面白くて、素敵な人だったんだ。
 ぴろき。名前がすでに面白い。ぴろき。
 アー写が全部おんなじ笑顔のぴろき。
 以下、私の思う、ぴろきのいいところをあげる。
 
・ぴろきは立っているだけで面白くていい。
・ぴろきは名前がいい。「ぴ」がいい。「ろ」がいい。「き」がいい。
・ぴろきは検索すると、候補に「ピロリ菌」があがってくるのがいい。
・ぴろきのホームページがいい。タグの「ぴろき画像」をクリックするとぴろきの写真が一枚だけどーんとでてくるのがいい。
・ホームページで使われている画像がすべて同じぴろきなのもいい。
・ぴろきのユーチューブチャンネルは、投稿がひとつしかなくていい。
・ぴろきは代演を頼んだら、余程のことがない限り駆けつけてくれそうでいい。
・ぴろきのメガネは鯖江のメガネなところがいい。
・ぴろきは、東洋館に行けば絶対に会えるのに、また会いたくなるからいい。
・ぴろきは、三十代の頃から姿形がほとんど変わっていないところがいい。
・ぴろきのインスタグラムは、投稿がボットっぽくていい。
・ぴろきは、誕生日が元旦なところがいい。
・事務所の名前が「オフィスぴろき」なところがいい。
・ぴろき還暦、なところがいい。
・ぴろきはネタをクラウド管理しているところがいい。
・ぴろきはぴろきのまま街を歩くのがいい。
・ぴろきは「笑いが一番」という考えが根底にあるのがいい。
・ぴろきの歌は心根に沁みるのがいい。
・ぴろきは妻に一目惚れをして、一途に会いに行っていたところがいい。
・ぴろきは存在そのものが面白いのがいい。
 
 ぴろきぴろきエトセトラエトセトラエトセトラ……。ぴろきのいいところは尽きない
 どうだ。ぴろきのことが気になってきただろう。
 ぴろきはいいぞ。ぴろきは楽しくなれるぞ。
 ぴろきは言わば葛根湯だ。生活必需品だ。ぴろきがないと心許ない。
 加えて、疲れ果てていたり、メンタルが不安定な時のぴろきはかなり効く。効くぞお。
 ぴろきはもはや抗うつ剤でもある。医療機関は即刻、ぴろきを取り入れるべきだ。
 気分がすぐれないなあ。なんだか嫌な気持ち。ちょっとダルい。生理痛がひどい。
 そう思ったらまず、ぴろき。
 かすり傷、あかぎれ、ぢ、ニキビにも良い、とか、言われていたりいなかったり。
「明るく陽気に、いきましょう」ぴろきがそういうなら、万物はよくなる。
 なにか問題ありますかね? ひぃひぃひぃ。
 あーたのしかった。
 
 
 
 
 
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?