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雑記20230510

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 腰をやってしまった。
 いわゆるギックリ腰である。とはいえ、今回は軽い。
 これを書いているのが発症からだいたい48時間後なのだが、痛み止め・湿布・コルセットの3点セット(筋肉の凝りをほぐす薬も出ているが)のおかげで、それほど支障なく日常生活を送ることができている。
 最初にギックリ腰をやったのは大学院生時代だから、もうずいぶん昔のことだ。
 そのときは換気扇の下でタバコを吸っていて、くしゃみをした瞬間に腰が終わった。時速30mほどの速度でドラッグストアに湿布を買いに行ったのを覚えている。
 書店員になってからは、腰痛は慢性的になった。それは営業時代も、そして編集者になってからも変わらない。
 そんなわけで、今回はしっかりとレントゲンも撮ってもらい(4枚)、骨に異常がないか見てもらった。
 そりゃあもう歪んでいるだろうと覚悟していたのだが、案に相違して僕の腰回りの骨は「とても美しい」らしい。整形外科医が骨に対して「美しい」という表現をするのが面白かった。
 痛みが落ち着いたら「腰痛体操」(パンフレットをもらった)をやろうと思う。

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 『土偶を読む』の書誌情報が公開されたとき、「これはダメだ、でも売れる」と直感的に思った。
 果たしてその勘は、当たり過ぎるほど当たってしまい、弊害も色々と出てきた。
 このたび、縄文ZINEの望月さんが『土偶を読むを読む』という労作を編集(本業であるデザインも)されて、そこには山田康弘先生をはじめとする専門家も多数参加されている。
 同じ商業出版という舞台に批判が載ったことは本当によかったと思うと同時に、望月さんのような得難いファンがいることは僥倖であって、これを他の分野で望んではいけないとも思う。
 反知性主義が蔓延っているという警鐘は、もうずいぶん前から多数の人がガンガン打ち鳴らしているところでもある。
 専門家は常日頃からいかに社会と向き合うかを常に考えねばならないし、社会との結節点にいるメディア(もちろん出版も含む)や、高い学歴達成を持つ人(本来的には学士だって専門家であるべきだ)は、社会に対して自分が責任を負う立場であることをいま一度考える必要があるだろう。
 これはもちろん自戒も込めて。

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 どんな仕事でもそうだが、インプットは常に必要である。
 僕のような仕事となると、最低でも本をできるだけ読み、面白い研究がないか探し、同業他社さんの動向を追う……というくらいは必須になってくる。
 とくに、年齢を重ねると感性で若い編集者(この世界にはあまりいないが)と渡り合うことは難しくなる(たまにそれを認められない「痛い」編集者もいるけれど)。
 そんなわけで、読むのは追いつかないが、新刊でも古書でも本を買いまくることになるのだが、そろそろ狭い弊社は在庫も含めて場所がなくなってきた。
 古本趣味の知人のなかには、「部屋のドアが45度までしか開かない」という剛の者もいるが、さすがに僕はそれでは生活できないので、少しずつ整理して処分するしかない。
 向こう3年くらいは参照しないであろうもの、また必要になれば安く買い直せるであろうものを優先的に処分していくことになるわけだが、そうは言ってもグラデーションというものがある。
 残すものは右、処分するものは左、と単純に分けられるわけでもない。
 結局、真ん中に本が積み上がり、整理はなかなか進まない。
 あまりにもあるあるであり、そして、わずかに減った分はどうせまた買ってしまうのである。
 常に場所に逼迫するのが、都市部で裕福でない暮らしを送る出版人の定めと言えるだろう。

常にこれ。

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 ことしはとてもあつい。

(これより下に文章はありません)

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