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ベルリンを去ることにした話

今から2か月前、昨年の12月のこと。
2年余りのベルリン生活を終えて日本に帰ることに決めた。

ちょっと前から、「何とか生活環境を変えなくちゃ」とは思っていたのだ。すっかり寒くなってグレーに曇ったベルリンの街で、私は行き詰っていた。始めはワーホリで来て、バイトしながら、フリーのライターにシフトしていくつもりだった。でも、うまくいかなかった。準備不足だった。

ベルリンの街自体は面白いし、大好きな友達もできたから、もうしばらくここに留まって新しいことを始めよう、とも考えていた。
でも、日本の家族とか自分の体調とか、急にいくつかの事情が重なって、ある日「もうここには住めない」と思った。というより、自分の住む場所がベルリンでないといけない、と思えなくなったと言った方がいいかもしれない。
一度そう思うと、ことあるごとに思考がそっちの方向に流れていくのだ。いったん日本に帰って、イチからライター業を確立するのが今の自分には必要、とも思った。
そして、決心した次の週には1月15日発の帰国便の片道チケットを買っていた。

帰国直前の1,2週間を思い出してみると、とにかく部屋の中でも外でも、落ち着かずに歩き回っていた気がする。食事をしていても、気もそぞろだった。

主にそれは荷造りのプレッシャーが理由だった。部屋中に散らばる、2年間分の暮らしの断片の数々を、スーツケースに詰め込んでいく作業。これは持ってく、これは処分する、と選別していくことの苦痛。自分はこんなに多くのモノを、どうせ捨てなきゃいけなくなるこのモノ共を、この2年のうちにに堆積させていたんだということへの辟易。
最後は半ばやっつけで、入るだけの荷物を全部押し込んだ。

***

ベルリンを出る前日の夜は、友達の家にいた。他愛も無い話を沢山した。別の友人がもう一人、さらに一人、加わってくれた。来週も、その先の週も、続けたくなるような、笑い話もいっぱいした。

この街での生活をお仕舞いにして、日本に帰るということについて、感傷的にならないようにしていた。また遊びに来ればいいんだし、もしかしたらまた住むことになるかもしれない。でもみんなと話しているうちに、急に「あぁ、もっとこうして話してたかったなぁ」いう気持ちが強まっていた。

たった2年でも、ここでの暮らしがあり、人との関わりがあり、やさしさや愛情の交換があり、親しみの蓄積があったという事実が、ぐぐぅっ、と質感をもって迫り上がってきた。いろんな感情が溢れ出した。ボロボロと涙が流れていた。

誰にだって訪れる人生の選択、それに伴う心残りや口惜しさ。この歳まで生きてたら、誰にだって思い当たる、何かをお終いにするときの感慨。それは微かな波みたいなものだけど、ココロは簡単に揺れる。

友人たちは、ちょっとだけビックリして、でもすぐに笑ってくれた。それが心地よかった。この空間にずっといたい気持ちと、泣いてしまった気恥ずかしさでその場から消えたい気持ちがごちゃ混ぜだった。

結局、午前3時頃家に帰った。
熱いシャワーを浴びて、4時頃ベッドに入った。ろくに眠らないまま、朝が来た。起きて最後の荷造りと掃除と洗濯をして、9時には借りていた家のオーナーに車でベルリン・ブランデンブルグ空港まで送ってもらった。

朝の空気は凍っていて、車の中も冷え切っていた。ブランデンブルグまで続くアウトバーンは閑散としていて、緑がかった灰色をしていた。やがて、どこまでも続くような畑の道に出た。両脇には背の高い木々が続いていた。全部にひんやりとした白い霧がかかっていた。中世のヨーロッパの風景画みたいに。

寝不足で無口な私を横目に、オーナーは陽気なスペイン語の歌のCDをかけた。老人ホームの誕生日会で流すみたいな、耳に届くか届かないかの音量で。あまりにも目の前の景色と合わないので、少し気まずくなって適当な会話を取り繕った。

空港に着き、オーナーに別れを告げて、チェックインを済ませた。荷物チェック、身体検査、出国審査。空港で飛行機を待つ自分は、どこの国にもいない、どこの何者でもない自分だ。

飛行機の窓から、畑の畝みたいな凹凸をつけて広がる雲を見下ろした。Joni Mitchelのアルバム「Blue」を繰り返し繰り返し、聞いた。前日の夜に散々泣いたのに、ブランケットを顔まで被ったら、またポロポロ涙が流れた。

「これから私はどこへ行くんだろう?」
日本に行くに決まってるんだけど、まだ実感が無くて、そんな疑問が何回も浮かんだ。心細かった。

***

羽田空港に降り立って、まず思ったのは、日本人の女の子たちって何て小さくて細っこいんだろう、ということ。なんだか自分がエイリアンにでもなった気分だった。

空港の検疫でのやり取り。私は当然、日本語をしゃべった。
そして、感じた。自分が、目線づかいや言葉遣いや一つ一つの動作から、徐々に、でも急速に「日本仕様」になっていくのを。

こうやって私はまた、この土地に合わせた「仕様」の自分を、一枚一枚纏っていくんだな。

隔離場所のホテルに着いたのは、空港に到着してから5時間後だった。
部屋がとにかく、寒かった。ずっと客が入っていないから、暖房もかかっていなかったんだろう。凍えながら、夕食用に配られた冷たいお弁当をそそくさと食べて、お湯を張った湯舟に直行した。

ベルリンでの出発の朝から、冷たい空気にさらされ続け、凝り固まって皮膚が薄紫色がかっていた太ももに、電流のように湯の温かさが染みた。2年ぶりに入る湯舟だった。

「すごっ!!風呂って、すご!!」



これが、帰国後はじめて私が叫んだ言葉であった。

(おわり)


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