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自己紹介


1982年12月16日、長野県佐久市生まれの37歳。
プロボクサー(全日本フェザー級7位)として活躍中に、初めて受けたストレッチの効果に感動しDr.ストレッチの社員となり、入社1年で全国15000人いるトレーナーの中で指名件数ナンバー1のトレーナーになりました。


現在ではJ リーグチーム、プロ野球選手、キックボクサー等のプロアスリートはもちろん、幻冬舎の箕輪厚介さん、コルク代表の佐渡島庸平さんの専属ストレッチトレーナーも担当しています。
全国で15人しかいない最上位クラスのストレッチトレーナーとして、お客さまの施術や後進の育成に携わっています。
「思い通りの人生を送りたければ健康であれ」という想いから、InstagramやTwitterで「健康なカラダづくりのコツ」を発信しています。
ぜひ参考になさってください。

このnoteでは、僕がトレーナーになるまでの道のりや、ストレッチにかける想いをお送りしようと思います。

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【小学生の頃の夢は、水泳でオリンピック選手になって金メダルを取ること】

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僕はものすごく貧しい家庭で幼少期を過ごしました。
貧乏すぎて小学生の頃から新聞配達のアルバイトをし、稼いだ給料を毎月家庭に入れるほどでした。
昔から運動は得意なほうで、小学生の頃は厳しい暮らしの中、父がプールに連れていってくれ、週3~4回しごかれていました。
ただひたすら泳がされたおかげで、速くなろうと思っていなかった水泳が、気づいたら学年一番になるほど得意になっていました。
泳ぐのが好きだったわけでありませんが「水泳をやめたら何も残らないから」と続けていたら、中学校3年生の時には県大会で2位になったのです。

これが人生で最初の成功体験だったように思います。

そうやって、僕はスポーツに勤しんでいましたが、中学校2年生のときに父親が会社を辞めてしまったことで、家庭の経済状況はますます苦しくなりました。
そして、高校入学と同時にアルバイトを始めることになり、あんなに頑張ってきた水泳をやめることになりました。

【小学生から自分の弱さを自覚し葛藤する日々、強くなりたい。勇気があれば……】

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幼いころから家庭の貧しさと両親の不仲を見て育った僕は、せめて、自分にほんの少しの勇気と強さがあれば家庭を変えられたのではないか、と思うようになりました。

とにかく強くなりたい! 
そのためにはプロのスポーツだ!

そんな安易な理由で、僕はボクシングを始めました。17歳、高校2年生のときでした。

決めたら目標に向かって一直線。
プロボクシングのライセンスは17歳で受けられると知ると、このままではプロになるのが遅れてしまうからと、すぐに高校中退を決意します。

ところがそのことを担任の先生に伝えると、
「高校を卒業してからでもボクシングはできる。高校ぐらい卒業しておけ」
と僕を引き留め、地元から通えるボクシングジムを探してくれました。

そうやって僕は、高2の年度末から週1回、家から電車で1時間の場所にあるジムに通いはじめたのです。
このジムには、今でも困ったら父親のように頼れる恩師がおり、そこが僕のボクシング人生の原点となりました。

自分の弱さを変えたい、と始めたボクシングでしたが、僕は日を追うごとに熱中し、練習にもかかわらず試合をすれば熱いものがこみ上げるまでになりました。
気がつくと、今までやってきたどのスポーツよりも、ボクシングに本気になっていたのです。

一生懸命に練習を重ねたボクシングでインターハイに行きたい!


そう思って頑張りました。

しかし、当時、長野県でボクシングをやっている高校はほとんどなかったので、トーナメントで2勝すればインターハイ出場を決められたのに、県大会の決勝戦で惜しくも敗退。
インターハイ出場は叶いませんでした。

僕の高校生活は、ここで終わりを告げてしまったのです。

【上京してプロを目指す】

高校を卒業すると、インターハイに出場できなかった悔しさもあり、僕はかねてより念願だったプロのボクサーを本格的に目指します。
当時日本のボクシング界の大手といえば、協栄、帝拳、ヨネクラ。
僕は、仕事を斡旋してくれて、宿泊所もあり、新聞配達をしてお金が稼げる
というヨネクラの、ボクシングメイツというジムに入りました。

練習が始まると、プロの世界は甘くないということを思い知らされました。

輝かしいスポットライトが当たる世界だと思っていたのに、最大手だったヨネクラには天才みたいな練習生があふれ、9カ月通っても、僕は名前すら覚えてもらえませんでした。
その後、埼玉県川越市にある新しくできた小熊ジムに移ったのですが、中途半端に経験のある僕は、他の練習生から煙たがられてしまいます。

どうすればいいんだ? 
ボクシングがどんどんつまらなくなっていく……。

当時はそんな悩みでいっぱいでした。

そこで恩師と先輩に相談し、現在も通っている金子ジムに移ることに。当時僕は19歳でした。
アマ経験もあり、プロのジムを2手通った僕は少し自信がありましたが、なんとここでもプロにボコボコにされる日々が待っていました。
ものすごくへこみましたが「こんなんじゃプロになれねーよ!!」と、懲りずに練習を続けました。

思えば、岐路に立ったとき、いつも僕は周りの人に支えられてきました。
厳しい家庭環境で育ちましたが、友達には恵まれ、僕の将来のことを考え親身になってくださった先生や、いつも本気で応援してくれる先輩方がいたのです。

今までお世話になった人たちに恩返ししたい! 

周りの人を支えるために強くなりたい、自分の弱さを克服したい、という思いで始めたボクシングです。
これまで僕を支えてくれた人たちの顔を思い浮かべると、簡単にあきらめるわけにはいきませんでした。
僕はプロになることを強く心に誓い、ついにプロテストに合格することができました。

ずっと憧れていた、プロボクサーとしての生活が始まったのです。


 【トレーナーとして活動するようになったキッカケ】

強さの象徴だと思っていたプロボクサー。
しかし、プロになっても恐怖が消えることはありませんでした。

厳しいトレーニングを重ね、固い決意でプロになった僕でしたが、試合の日程が決まっただけで、恐怖に押しつぶされそうになるのです。
しかし、試合相手も自分と同じように怯えているように見えました。

みんな怖いものは怖い。

同じだ、と思いました。
恐怖を打ち消すのは「強さ」ではなく、「強くあろうという姿勢そのもの」。
それこそが勇気の正体だと気づいた時、僕の心は少しずつ変わっていきました。

実はこれより数年前。

アルバイト先の大戸屋で知り合った同僚が、僕の試合を見に来てくれたことがありました。
彼女とはそれがきっかけで付き合い始めたのですが、実はある時、修行の為にと僕が無謀な挑戦をしようとし、それを彼女に報告したことがありました。
「はいはい、何言ってるの?」と相手にされないか、全力で止められるだろうと持っていた僕に、その時彼女は

「止めても行くのは分かってる。応援してる。だけど怪我をしないことだけは約束してほしい」

と言葉をかけてくれました。

僕が、言ったことを実行する人間だとわかってくれている。
その理解と優しさに、僕は心に彼女との結婚を誓いました。
日本ランカーになったタイミングで、彼女の両親に結婚の許しをこいにいこう!と決めたのです。

そんな中、日本6位の選手と対戦が決まりました。

恐怖に震え、毎日死ぬほど練習する日々。
いろいろな決意、様々な人への想い。
責任感と覚悟。意志。

練習がうまくいかなかったり、スパーで打たれたりすると「こんなんじゃ勝てねーよ!」と泣いたり、落ち込んでしまうことが何度も何度もありました。
しかし、「今回だけは絶対に勝ちたい!ここで勝つことが自分の使命なんだ」と、自分を鼓舞しながら練習を続けました。

そうやって臨んだ試合は…

見事勝利!
99対1の圧倒的下馬評を1ラウンドKOで覆し、僕はついに日本ランカーになったのです!

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これで箔がついた。実績を積めた。

そう思い、僕はとうとう彼女のご両親に結婚を志願することにします。

ところが!

「ボクシングは食べていけるのか?」
「いいえ、だから今はアルバイトをしています」
「辞めたらどうするんだ?」
「今はボクシングに一生懸命なので、辞めた後のことは考えていません」
「ふーん、じゃあ結婚は無理だ」

と一蹴されてしまいます。

日本で一桁番目に強い男になったのに、結婚を認めてもらえないなんて…と、相当ショックでした。

そこから将来の仕事を考えるようになりました。
ずっとスポーツを続けてきて体のことには興味があるし、やるならボクシングが強くなりそうな仕事がいい、と思いました。

そんな時、たまたま見ていた総合格闘技の試合で、所英男選手のトランクスに「Dr.ストレッチ」という文字を見つけました。
格闘技のスポンサーになっているのだから格闘技に理解があるだろうと思い、お店でストレッチを受けてみることに。
お店に入ると、元気そうなお兄ちゃんが丁寧に話を聞いてくれます。

「思ったより痛いと思います。筋肉痛になるかもしれませんよ」

という説明に、そんなに伸ばしてくれるの?と初めて人に伸ばしてもらう感覚にワクワクしました。

受けてみると本当に驚きました!
想像以上に痛い!!

けれども、受けている最中にどんどん身体が変わっていることにベッドで寝ていても気づきました。
練習でずっと身体に向き合ってきたから、堅かったところ、柔らかくしなければいけない場所が変わっていくのが分かるんです!

ボクシングで強くなるため、毎日1ミリでも柔軟性を上げよう、改善しよう、と練習してきたのに。
ストレッチをたった1回受けただけで前屈が何センチも変わってしまった…。
これは寝ているだけで強くなれるぞ!と思いました。

ストレッチの概念が一気に変わった瞬間です。

その後、いつもどおり練習に行ったのですが、腰の切れる感覚と拳の走るスピードが違い過ぎて驚きました。
自分のパンチが速すぎて、タイミングが合わないぐらいだったのです。

あまりに感動した僕は、アルバイトとして入社を決めます。

そこからボクシングと「二足のわらじ」生活が始まりますが、あくまでメインはボクシング。
しかし、年を重ねるごとに、徐々に体力が落ちていくのを感じます。
練習しても、強くなっている感覚が薄れていくのです。
そしてついに、「次、負けたら引退」と決めていた試合で負け、現役から退くことが決まりました。

もう会社にはいられない…。

そんな思いが頭をよぎりました。
なぜなら当時の僕は、プロボクサーの肩書があったから雇ってもらうことができた、と思っていたからです。

ところが、「プロを引退したら解雇かも…」と覚悟を決めて社長に相談しにいくと、正社員として雇用してくれるというのです。

【30歳にして社会人1年目】

恐怖を受入れ、自分の弱さと戦ってきた自分が、ボクシングにかけていた情熱を全てストレッチにかけ始めました。
すると数字はうなぎのぼり。

しかし、その後店長を任されることになると、プレーヤーとの仕事の違いに悪戦苦闘。
まだまだ成長過程だった僕は、上司ともうまくいかなくなります。
半年間で、休んだのはたった5日という長時間労働で、メンタルも悪化していきました。

どうしても上司の言動に納得できず、またしても、クビを覚悟で社長に直談判しに行きました。
すると、

「おまえの気づいてないところに気づいている上司。
上司が気づいてないことに気づいているおまえ。
この二人が協力したら、もっといい会社がつくれると思わないか?」

と言われたのです。
「この社長にはかなわない。一生ついていきたい」と本当に思いました。


そこからは上司と協力しつつ、自分の強みを生かす道を探りました。
毎日勉強し、ストレッチの練習をして数字を追い、お店を引っ張っていきます。
そしてストレッチは自然とうまくなっていき、ついには、全国指名件数ナンバー1になったのです。

その後、
1000人以上いるトレーナーから6人しか選ばれない海外研修員にも抜擢され、現地でプロサッカーチームのフィジカルコーチ、メディカルコーチとのミーティングも経験できました。

しかし、その頃の僕にはストレッチ以外に得意なものがありませんでした。
「年を取ってプレーヤーを続けられなくなったら…社長はクビにしたりはしないと思うけど、自分をお荷物と感じるつらい人生になる。」
そんな風に思い、プレーヤーではなく、教える側、トレーナーを目指すようになったのです。

すると、その後の努力が報われ、ありがたいことに日本で15名しか選ばれない、グランドトレーナーという称号をいただくことができたのです。
そして現在僕は、Dr.ストレッチのトップトレーナーとして日々お客さまの体に向き合っています。

【ストレッチを文化にしたい! そのために僕は発信していきます】


僕が発信をする原点は、自分がDr.ストレッチを初めて受けたときの衝撃をみんなに知ってほしいから。
そして、歯を磨く習慣と同じように、ストレッチを文化にしたいと思っているからです。

厚生省が発表した2018年の日本人の平均寿命をご存じですか。
女性が87・32歳、男性が81・25歳です。
それに対して健康寿命というのは、人の世話にならずに生きられる寿命のことです。
日本は世界有数の長寿国ですが、70歳を過ぎると日常生活に制限のある不健康な人が増えてきます。
そこから平均寿命まで10年以上、人のお世話になって生きているのが現状なのです。

厚生省が2016年に発表した数値で、平均寿命と健康寿命を比べてみましょう。

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※公益財団法人生命保険文化センターHPより転載

20歳を過ぎた人の平均寿命は100歳ともいわれ、これからはもっと寿命が伸びていきます。
あなたは、身体の不調を抱えたまま長生きしたいですか?
自由に動ける身体で長生きしたくないですか?

この大切さに気づいたのは、教育委員会の方に呼ばれて、ある中学校で保護者向けにストレッチのセミナーをやらせてもらった時です。

そこで先生から、こんなお話がありました。

「今40代、50代の手術が増えています。

それはみんな自分の身体をないがしろにしているからです。

痛くても働けるし、座り仕事が多く大きく身体を動かす仕事はあまりない。

そして、ある朝起きたら痛すぎて、これはまずいと病院に行く。

その時、医者に『これは手術ですね』と言われる。

術後のリハビリは独りではできなくて、人に伸ばしてもらったり、トレーニングの補助をしてもらうことになる。

身体が壊れてからやりますか?
それとも、壊れる前に予防としてやりますか?」

腰が痛いと病院に行けばCTやMRIを撮ります。

しかし「これはヘルニアですね」「狭窄症ですね」「分離症ですね」と病名がつく患者は、たったの15%。

参考資料:腰痛ハンドブック

他は原因不明で、病名がつかないことがほとんどなのです。

仮に診断を受けてヘルニアだと分かったとして、「どうしたらいいでしょう」と聞いても、お医者様が言うのは二つだけ。


「安静にしてください」

もしくは

「痛かったら手術しますか?」


そうなってからでは遅いのです。

診断がつかない残りの85%は、僕たちトレーナーの仕事で、あなたの肩・腰にある不調は変えられます。

僕がはじめてDr.ストレッチを受けたときのように、ストレッチで身体が変化することを、あなたにも知ってほしいのです。

痛みのない身体で元気に動いて、90歳になっても海外旅行を楽しんでほしい。
けが知らずで柔軟な身体を手に入れ、生涯健康な人生を楽しめるように、今からしっかりと身体づくりをしてほしいのです。

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【おわりに】
ストレッチの効果を知った今だからこそ、言えることがあります。
ボクサーとして毎日ジムに通い詰め練習に明け暮れていましたが、やみくもに頑張らなくても、身体のケアをする日をつくりストレッチを続けたら、もっと結果が出ていたのではないかと思います。
筋肉は嘘をつかないのです。
筋トレもストレッチも、やった分だけ身体は必ず応えてくれますからね。
ぜひ、ストレッチで自分の身体と向き合う時間をつくってほしいと思います。

最後に、僕が大切にしている言葉をお送りし、自己紹介を終わりにします。

思い通りの人生を送りたければ健康であれ!

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
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