夏目漱石『坊っちゃん』

しばらく前から「坊ちゃん」が読みたかった。
だが、あいにく「坊ちゃん」は手元になかった。
そうこうしているうちに、時代劇専門チャンネルで「夏目漱石の妻」というドラマを観た。
英国留学帰りの漱石が神経衰弱の発作を起こす。その姿の痛々しいこと。
病を抱えつつ生きた漱石への親近感がにわかに増してくる。
そんなことで、kindle Unlimitedで「決定版 夏目漱石全集」をダウンロードした。160作品、7187ページがkindle Unlimited会員だと無料で読めるのはお得である。
今まで、遅読のためkindle Unlimitedにはだいぶ寄付をしてきたので、たまには少し元を取るのもいいだろう。
ただ、7187ページ全部を読み終わらないと感想が書けないとすると、あまりにも厳しいので、感想は小分けにして、その都度書いていきたい。/


「坊ちゃん」は、僕にとっては、ロマン・ガリ『夜明けの約束』、島崎藤村『ある女の生涯』などと並んで、「母もの」の一つである。
坊ちゃんの母親は若い頃に亡くなっていて、物語の前半にしか登場しない。
「母もの」の母は、女中の清である。/


【清は時々台所で人の居ない時に「あなたは真っ直でよいご気性だ」と賞める事が時々あった。】

僕の母も、「お前は見事な赤ちゃんで、周囲の女の人がみんな触らせてといって来た。」と、何度も何度も言っていた。
今にして思えば、いつも暗い顔をしている僕を少しでも元気づけようとして、ほとんど取り柄のない馬鹿息子の幼少時の黄金時代(たぶん、その時が母にとっても一つの黄金時代だったのかもしれない。)のことを、繰り返し話してくれたのだと思う。/


【「「美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡に居らないから……と君は云ったろう」「うん」」
「「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」「じゃ何と云うんだ」「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい」」】


坊ちゃんは江戸っ子だけあって、セリフ回しがやたらと気っ風がいい。
まるで、寅さんの物売りの口上のようだ。
言いたいことを言って、やりたいようにやって、すぐに喧嘩をして、パッと出て行ってしまう。
行動の面でも、坊ちゃんは寅さんに似過ぎている。
喧嘩をするまではいいのだが、あまりに簡単に出て行ってしまう。
寅さん映画では、しばらくして帰ってくれば、また何事もなかったように迎え入れてくれるが、実人生ではなかなかそうもいくまい。
「真っ直でよいご気性」は、逆に言えば堪え性がないとも言いうる。
この気性では、坊ちゃんは渡り鳥のように、職場を転々としなければならないだろう。
あるいは、坊ちゃんもまた、「異人」の一人なのかも知れない。/


【清の事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。

その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。】


清の佇まいは、なんだかフローベール「純な心」のフェリシテを思わせる。
というわけで、「坊ちゃん」は僕にとっては「母もの」である。/

主人なき 家の静かさ 夜も更けて 小さき母の 面影と居る

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