須賀敦子『トリエステの坂道―須賀敦子コレクション』

悲しみを癒すために、また須賀さんの力を借りることにした。
須賀さんの文章を読むことは、いつも僕を深く癒してくれるから。

本書の登場人物の多くは、イタリアの陽光の下で、みな濃い影の部分を持っている。
知能指数がかなり低く、問題児で、何度も警察の厄介になっているトーニ。
父と兄、妹を早くに亡くし、自らも四十一歳で急死する須賀さんの夫、ペッピーノ。
大半が戦争や病気などで夫を亡くした鉄道員官舎の人々。
貧しくて孤独で、それぞれの不幸せを抱えた小さな人々。
映画でいえば、ピエトロ・ジェルミの『刑事』や『鉄道員』に出てくるような。
これらの小さな人々の小さな物語が、僕を魅了してやまない。/


【夫の実家に私が出入りするようになったのは、私がローマからミラノに移って結婚する十カ月ほどまえのことだったが、当時、なによりも私をとまどわせ、それと同時に、他人には知られたくない恥ずかしい秘密のように私を惹きつけたのは、このうす暗い部屋と、その中で暮らしている人たちの意識にのしかかり、いつ熄むとも知れない長雨のように彼らの人格そのものにまでじわじわと浸みわたりながら、あらゆる既成の解釈をかたくなに拒んでいるような、あの「貧しさ」だった。(略)私は、彼らが抱えこんでいるその「貧しさ」が、単に金銭的な欠乏によってもたらされたものではなく、つぎつぎとこの家族を襲って、残された彼らから生への意欲まで奪ってしまった不幸に由来する、ほとんど破壊的といってよい精神状態ではないかと思うようになった。】(「キッチンが変った日」)


【私はかまわずドアを押してひんやりした室内に入り、ビニールのクロスをかけたキッチンの椅子にこしかけて、しゅうとめが戻ってくるのを待つことにした。
鉄道員官舎と呼ばれてはいたけれど、その家に私が出入りするようになったころはすでに、もともと世帯主であるはずの鉄道員たちは、どうしてこの家の住人ばかりがと思うほど、大半が戦争や病気やはては鉄道事故などで亡くなっていて、あとに残されたもう若くはない妻たちが、前歯が抜け落ちたような侘びしさのなかで、乏しい年金をたよりにひっそりと暮らしていた。(略)小学校は出たがその先はとても、といった息子や娘たちも、いつのまにか親とおなじ底辺の暮しに吸いこまれていった。】(「セレネッラの咲くころ」)


【ペッピーノが四十一歳で急死して何年か過ぎ、すこしずつ、正常にものが見えるようになってくると、私はムジェッロ街の自分たちの家がどうみても異様なほど荒れ果てているのに気づいた。しかもその荒廃は、私にとってすべての基準だった彼がいなくなってからのことではなくて、もしかしたら、私たちがいっしょに暮しはじめたときからすでに、ひそやかな毒のように内側から私たちを麻痺させ、私たちの生活を空洞化していたのではなかったか。そしてそれが、かつて彼の家族を襲った三人の死に発したものではないかという考えがあたまに浮かんだとき、私はなにかが理解できたように思い、寒々とした灰色の地平線に光が見えたような気がした。】(「キッチンが変った日」)

1967年にペッピーノが急死して、須賀さんは1971年に日本に帰国する。
おそらく、須賀さんはこのとき帰国を決意したのではなかっただろうか?

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