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さよなら絵梨-藤本タツキ について ※考察 23:18加筆

悪文で失礼


結局の所、必要/不必要に分けて情報を削ぎ落として選択的に受容していくこと≒創作の話。

人間の「面白い」「理解しやすい」「正しい」「美しい」といった感情的反応を引き起こす枠に情報を当てはめていく(≒創作や、編集や、容量の削減)過程で、削ぎ落としていく情報/残す情報を取捨選択していく編集行為の話


・冒頭の3ページについて。母親について

 自分の誕生日という祝うべきことに対して母親の病気の話を持ち出されて「今する話じゃない」と返すことは、「人間は情報の取捨選択を行って、都合の良い情報だけを受け取りたがる(祝いにふさわしくない情報は、排除したがる)」という読者の性質に基づいた胸糞展開である(この胸糞感は、のちに出てくる「現実の母親」の性質を直接表してるページ群(父による動画のシーン)で、「現実の母親」のキャラに対して読者が抱く印象の、縮小版)。

 「情報の取捨選択がなされたフィクションの母親」を残させるために、不都合な情報を写そうとする主人公を攻撃することが後に明かされている。また主人公もまたそんなフィクションの母親を作り出すことには合意している。

 7ページめの「お母さんがウンコをします」「お母さんがお風呂に入ります」において母親が「撮っちゃダメ」と言っているのは、不都合な自分を映させないという姿勢の発露である。
母親は美化された形で思い出されたいし、主人公も父親もそれに肯定的。



・主人公と絵梨の関係

 「現実の主人公は、フィクションの絵梨が好き」。同様に「現実の絵梨は、フィクションの主人公が好き」。

 しかし

 「現実の主人公→現実の絵梨」「現実の絵梨→現実の主人公」はそうではない。

 

 ※現実の絵梨について明らかになった終盤のページ参照。「見る度に貴方に会える…」「私が何度貴方を忘れても」「何度でもまた思い出す」「それって素敵な事じゃない?」の見開き2ページ。
この2ページは「現実の主人公→フィクションの絵梨」「現実の絵梨→フィクションの主人公」に対して視線が向けられているように見える構図にしてある。だが「現実の主人公→現実の絵梨」「現実の絵梨→現実の主人公」は背中合わせになっており、お互いを見ていない。
あくまで現実の二人は、「フィクションの」もう片方を好きである。

 

 

 

・現実の絵梨は吸血鬼なのか(作品をまぎらわしくしてるらしい部分その1)

 吸血鬼である。現実も。

 

・ブチ泣かせた直後に出てくる、例の女子高生(作品をまぎらわしくしてるらしい部分その2)の言っている事

 真である。ここで語られている情報は、このマンガ(これも編集して不都合な事実を削除する編集行為の、その出力物なので)には書かれていない。「現実の絵梨、及び、現実の主人公」の二人の間だけで取り交わされている情報。

 

 

 

・なぜ爆発オチなのか:1(もう少し後でまた触れます)

 「現実の主人公→現実の絵梨」という感情は、好きではない 

 かつ

 「現実の主人公は、フィクションの絵梨が好き」だから。

 絵梨の知り合いを名乗る女子高生の言うとおりの人格こそが、現実の絵梨である(メガネだし歯の矯正をしている。またすぐキレるし自己中~うんぬん)。

 そんな現実の不都合な絵梨を否定して、フィクションの絵梨に書き換える。編集された絵梨を肯定する、という姿勢。
 それがあの爆発オチである。

 

 複雑で、醜くて、生々しく、不都合 な情報を含む現実(=現実の絵梨)

 を、

 わかりやすく、美しく、理解しやすい、自分の舌にあった情報へと加工したフィクション(=フィクションの絵梨)

 へと置き換えてやる姿勢の発露があの爆発オチなのである。


 現実をフィクションへと書き換えてやった。

 だって受け入れやすいから。

 母親の死をフィクションに書き換えてから受け入れるのも同じ。

 

 

 

・主人公は、カメラ越しにしか現実を受け入れられない

 彼も普通の人間と同じで「面白い」「わかりやすい」「食べやすい」「シンプル」といった形に編集された後の情報しか受け入れられないだけ。

 巨大すぎる現実を受け入れられないのはスマートフォンの容量も、クソ映画を見せつけられて否定的反応を示した人間たちも、否定的な意見を受け入れられない創作者のメンタルも、吸血鬼の脳の容量も、「誰かの死に耐えられるほどの魂が残っていない」の話も全部、同じ


・絵梨の知り合いを名乗る女子高生の直後にある、長い暗転の部分

 これは、映画みたいな演出だけど、それ止まりとして誰にも見せていない。
 あくまで「美化された理想の自分になりたい」っていう主人公の感情の発露である(実際、暗転の直後には不都合な現実の話が続く)



・なぜ爆発オチなのか:2

行って帰ってくる物語だから。主要な点は以下。

1回目の死(母親):受け入れられないので、クソ映画におとしめることで受け入れようという姿勢。でもおそらくはそんな自分がイヤになったのだと思う(終盤で主人公がカメラ越しにしか現実を見ることが出来ない話)。これはキャラクターアーク(ググって)

2回目の死(現実の絵梨):なので、母親の死の反省をし「ちゃんとした」恋愛映画のような受け入れかたをした(生徒たちはちゃんと泣いた。受け入れられる形に編集が成功した。たぶんそんなカメラを通じて物事を理解するという主人公もまた「素直な恋愛映画の形」で現実を受け入れたんだと思う)

オチに向かうまで:「正しい理解の形」とかいいじゃん!!!受け入れがたい現実をクソ映画としておとしめて理解するのでもいいじゃん!!!正しい受け入れ方への強制(序盤の「母親の死を真面目に受け止めろ!!!」っていう教師の反応。クソ映画だなと言う生徒のほうは、まあそういう受け入れ方ではあるはず……)なんてクソだよな!!!!!

……という1回目の母親の受け入れかたと同じ形に回帰しようとするオチ。

「クソ映画」→「きちんとして、人が望んだとおりの、素直な、映画の形」→「クソ映画」

という形で、主人公の情報受容の仕方が、行って帰ってくる物語になっているのがこの作品全体のおおまかな流れなのではないか、と思う。

ふざけきってて死を冒涜している理解の仕方であろうとも、そういう理解の仕方をする自分を肯定するのだと思う。

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