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月見うどん

祖母が倒れたという知らせをうけてから、急いで仕事を片づけて、飛び乗った新幹線は最終だった。窓から見える景色は真っ暗で、満月が異様に明るかった。思えば、祖母とはもう20年ほど会っていない。最後に会ったのは確か私が小学生の時、母が腰のヘルニアを悪化させて手術する事になったので、夏休みの間だけ祖母に預けられたのだ。祖母はよく笑う人で、6羽のニワトリと一緒に暮らしていた。毎朝、ニワトリが産んでくれる卵を回収して、2人分の卵かけご飯を作るのが、お世話になっている間の私の仕事だった。ある時、いつものように、産まれたてのまだほんのり暖かい卵をボウルに割ると少し様子が違っていた。黄身の部分が奇妙に光っていたのである。私は驚いて「おばあちゃん!!卵が!!」と祖母に訴えかけると、彼女は微笑んで「あらあら、当たりが出たね」と言った。祖母は「ちょっと失礼しますよ」と私から卵の入ったボウルを受け取り、台所で何かを作り始めた。「なんだか、お月様みたいだった」そうつぶやいた私に、祖母はまた笑って「お月様もなにも、お月様だもの。お月様はね、お天道様が空にいる間は卵の中で眠るのよ」といった。そんな説明で納得する訳もなく、質問をしようと口を開きかけた時、「食べてごらんなさいな」と祖母は私の目の前にうどんをおいた。一見卵の乗っている普通の月見うどんだったが、やはり真っ白いうどんに乗っている卵は、キラキラと光っていて、立ち上る湯気ですら目を奪われる程に美しかった。その時にはもう、しようとしていた質問のことなんか、頭の中から消え去ってしまって、気づいたら月見うどんを口の中へと運んでいた。お箸でお月様をぷつりと刺すと、お皿の中にお月様が流れ出して、また大きな満月のようになって、ほのかに甘い匂いが鼻腔をくすぐる。暑さなんて気にならない程に、私は月見うどんを夢中でほおばった。本当にこの世で一番美味しいものだと、幼いながらに心の底から思っていた。祖母はそんな私のことを、向かいっかわに座りながらいつまでも笑顔で眺めていたのだ。今日みたいに満月の夜には、あの夏のことをよく思い出す。月見うどんと、そして祖母のことも。おばあちゃんのことを忘れた時なんてなかった。また、あの時みたいにいつでも笑顔で出迎えてくれると思っていたのだから。私は20年もの間忙しさにかこつけて何をやっていたのだろう。東北へ向かう新幹線の中、暖かく光る満月に見つめられながら、私は大好きな祖母のことを思って泣いたのだった。

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