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【遺書17】希死念慮すら受動的。

自分はずっと受け身な人間だ。

何をするにも。

自分からは何もしない。

何も動かない。

人から言われたら、やる。

指示されたら、やる。

言われなければ、何もしない。

やる必要がなければ、何もしない。

やらなければ怒られる状況にならなければ、やらない。

受け身で、消極的。

積極性・能動性がまるでない。

自主性・自立性がまるでない。

主体性・当事者意識がまるでない。

義務感、やらされ感、被害者意識、ゲスト意識しかない。

常にお客さん目線。

そんな風にしているのが楽だから。

積極的、能動的、主体的にならなければ、と思ったこともある。

ただ、「なりたい」ではない。

ならなきゃいけないらしいからだ。

ならなくていいなら、別になりたくない。

それすら受け身だ。

他人事だ。

仮に必要性があるとしても、次は必死にやらない理由を探してきた。

だって、やりたくないのだから。

受け身のままで何とかする方法。

積極性や能動性がなくても何とかならないか。

自主性・自立性がなくても何とかする方法はないか。

主体性・当事者意識がないまま、生きていくにはどうすればいいか。

そんなことばかり考えている。

自分を変える気がない。

だって、本心では変わりたいなんて思っていないのだから。

今の自分のまま、何とかならないか。

そんなことばかり考えている。

そのほうが楽そうだから。

本当の自分を大切にしたい、とか。

ありのままの自分を受け入れて生きたい、とか。

そんな綺麗ごとや前向きな感覚ではない。

何もしなくていいほうが、楽そうだから。

面倒くさくないから。

それだけだ。

これからも、そうだと思う。

自分が変わることはないし、変わろうとすることもないと思う。

ところで、自分は「死にたい」とか「自殺したい」と思ったことがない。

ただ、希死念慮と言われるものが全くないわけではない。

何もしたいことはないし、何も楽しいことはない。

成し遂げたいことなんて何もない。

やりがい、生きがいを感じる瞬間もない。

嫌なことばかりだし。

怖いことばかりだし。

不安なことばかりだし。

明日になるのが怖いし。

朝になるのが怖いし。

でも、なぜか「死にたい」「自殺したい」という感覚とは違うのだ。

どちらかというと、

事件や事故に巻き込まれて死なないかな。

災害に巻き込まれて死なないかな。

殺されないかな。

殺してほしいな。

消してほしいな。

そんな感覚だった。

希死念慮すら受け身だった。

自分で終わらせる気はない。

誰かに終わらせてほしい。

そんな感情。

つくづく自分は受け身な人間だと感じた。

死に方すら他力本願だ。

誰かのせいで死にたい。

何かのせいで死にたい。

死ぬ状況に陥らせてほしい。

でも、それでいいのかもしれない。

だから、結局いままで死なずに生きてきたのかもしれないから。

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