「ホントの気持ち」への違和感

「『ホントの気持ち』教えて?」という言葉が引っかかった。
それは多分、私が以前その言葉、その意味、にこだわっていたからだと思う。

友人関係は『ホントの気持ち』を引き出したもの勝ちだと思っていた。どれだけ心を開かない人でも、私にだけはどうにかして心を開いて欲しい、そのためにならなんだってする。どれだけ自分が共感できなくてもする、無理やりにでも都合をつける、などということをしていた。自分の思いではなく、相手が望みそうな言葉、行動を先回りしてやっている、ということである。あくまでもゴールは心を開いてもらいたい、というプラスだが、その過程で、人の言葉・行動を疑うというマイナスなことをしていた。

今日学校で習ったことがある。ホントの自分は、そこにあるように見えるけど、それは、色んな場面での自分が円になって、その真ん中にできた穴である。と最初聞いた時はよくわかんなかった。穴?存在してない?なにそれ。

私なりの咀嚼をする。
色んな場面で、そこに適した自分を演出して態度として表出する。色んな場面での自分で固められて、それがネガティブな方向に思えた時に、ホントの自分が見えなくなったような気がして、焦るけれど。でも、自分で考えた適した像で、自分、というフィルターは必ず通っているわけで。探している、ホントの自分は、あるようでない。だから、ドーナツの穴みたいなもの。穴があってこそのドーナツであるのなら、穴も自分の1部で、でもそれが独立することは無い。

私の中では少し整理が着いた。
この説にのっとるなら、ホントの気持ちを追い求めるのも、違う気がしてきた。友人が発する色んな言葉・態度は、それ全てが友人のオリジナルであると思ったから。本音と建前の建前だろうと、建前を言うということが、ホントの気持ちだし、その建前の言葉も友人のオリジナルなのだ、と思うから。
だから、私は疑うことをやめた。
ひとつひとつ、信じてみることにした。


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