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【映画】Here/バス・ドゥヴォス


タイトル:Here 2023年
監督:バス・ドゥヴォス

普段は気にすることなく通り過ぎる周りにあるものに、ふと意識が向く事がある。何も音を立てずに部屋で寝そべっている時、外の車が通り過ぎる音や人の声などの環境音だったり、窓から見えるいつもの風景の中の朝の空気、昼の明るさ、日が翳り始める明暗が体の中のリズムと重なり合う。街の中でも、信号待ちをしている時の辺りの音や景色が突然ぱっと自分を取り囲むような感覚に入り込む事もある。公園や自然の中でくつろいでいる時は、なおさらその感覚に出会う事も多い。
そんな日常の中にある感覚を一本の映画に仕立てたような本作は、とても繊細な描写が最初から最後まで貫かれる。一日の中で刻々と変わる街の表情や、広場で遊ぶ子供たちの声、森の中の樹々を通り抜ける風や鳥のさえずりが響く。こういった表現は、映画の中のワンシーンだけ印象的にインサートされる事はあっても、一本丸々織り込んだものは他にはないのではないだろうか?思い返しても、ここまで徹底したものは他に思いつかない。しかし、これらの描写、特に音に関してはナチュラルに録音したものをそのまま流しているわけではなく、鉄道が真横を走る森の小径を歩くシーンで鉄道の音が鳴っていないように、意図して音を差し替えている。そうした自然の姿をクローズアップする事で、主人公たちが耳をそばだてているのが、何なのかを示している。
舞台はベルギーだが、ダルデンヌ兄弟の作品と同じく移民の物語でもある。ルーマニアからの移民であるシュテファンがヴァカンスで故郷に帰るまでが綴られるが、彼の心のうちは異国での生活に疲れ、故郷への想いに駆られている。その故郷の幼なじみは刑務所に収監されてしまい、過去と現在の変化が故郷に帰る前に既に露わになっている。疲弊感と郷愁と不安がないまぜになったまま、ベルギーでの日常から切り離されかけた人々との交流が、手製のスープと共に関係性を炙り出していく。ヴァカンス前に冷蔵庫の中の食材を処分する事と、その食材で作るスープ、そしてそれを分かち合う友人たち。自分の家は”ここ”であり、故郷は”ここ”ではない。自立しているのに、どこかこの場所に馴染みきらない感覚がある。シュテファンはダルデンヌ兄弟の作品のようなアフリカ移民のような極端なストレンジャーではないものの、ヨーロッパの中でも生きづらい感覚を感じさせる。
ヨーロッパで初めて敷かれた鉄道の存在も、彼の心情を物語る。ベルギーからオランダへと至る鉄道の存在は、国を跨いだものであり、国と国を移動する手段である。鉄道インフラは移民や難民を運び込み、第二次対戦中はホロコーストへ運び込む手段でもあった。それは自由への入り口でもあり、地獄の入り口でもある。しかし現代の鉄道は、遥か彼方にある故郷へと繋がるインフラであり、郷愁とまだ見ぬ世界へと移動する可能性でもある。シュテファンは車で故郷へと向かうはずだが、鉄道が指し示すのはヨーロッパ大陸を繋ぐ架け橋としての存在だったように思う。
一方で中華系移民のシュシュは、苔を研究していて、地球上で最初に発生した苔の姿をルーペ越しに見つめる。苔は葉先から胞子が放たれ、ミクロな森が広がっていく。小さな世界が構築され、広がり、新たな森が生まれる。移民の姿と、最初に成り立った苔と鉄道の姿が重なっていく。言葉で多くを語らないのに、静かに佇む苔の多様な姿は言葉を超越した形而上的な感情を湧き起こす。
侘び寂びに似た描写は、日本人が得意そうなテーマではあるが、現代の日本では意外と静かさや間を恐れているようにも感じる。饒舌である事が、イコールのようにエンターテインしていると錯覚し、やたらと間を詰める。もちろん、間を大切に扱う作家も多々いるが、現在社会を見ていると、どうも間が開く事を回避する傾向があるように感じられる。せかせかと生きる中で、ふと生活音や環境音に耳を立てる事は少ない。合理性や新自由主義が闊歩するのは日本に限った事ではないが、都会の中にいても今目の前にあるものに僅かながらでも対峙する時間の大切さは、改めて感じていきたい。そう感じさせる映画であった。
夜中に森の中に入り、手のひらから溢れ出す蛍の光の幻想的な世界観。そしてラストで名も知らない人との繋がりにハッとするシュシュのヴィヴィッドな表情が、頭の中から離れない。
ブレヒト・アミールによるスコアも素晴らしく、低音弦を使った弦楽器のフレーズが情景と相互に作用していた。場面の切り替わりで音が鳴る時のヴィヴィッドな響きにハッとさせられる。


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